当協会主要メンバーのプロフィールです。
会員
代表理事:田澤 孝雄
『世間知らず戦略』次男坊社長
(世界のイチローと一緒!!)
どんな学生だったか?
早稲田実業高校から早稲田大学政治経済学部に進学。父親に逆らえず、
大学1年で宅建を取得する。不動産業を営む父親へ反発心で、不動産とは
真逆の弁理士取得を決意する。バスケットサークルで学生生活を謳歌しな
がら、受験勉強に勤しむ。弁理士の実務や業界を知らずに決意するところ
に、世間知らず振りを発揮している。
サラリーマン時代
将来の弁理士の卵として、アルプス電気にお世話になる。ここでも世間知ら
ず振りを発揮して、弁理士取得の環境を整えてもらい、25歳で合格を果た
す。面白い奴として、知財以外に、財務、価値評価、VC投資など幅広く業務
を経験させてもらう。順風満帆なサラリーマン時代を過ごす。
入社のきっかけ
自分にも子供を持つことができ、父親としてのキャリアを積み始めた時、自
分の父親のことは何も知らなくて良いのかと、深いループにはまる。そんな
タイミングで兄が家業を継ぐ意思がないと知る。自問自答の末、弁理士の
キャリアを生かせればという、勝手な妄想をして、入社を決める。妻に相談
せずに独断で決めて、会社に辞表を出し、身重のなか引っ越しを決行してし
まう。
父親との関係
まさに天皇。言い返すことは不可能。苦労と力量の差も圧倒的。仮に、喧嘩
をしたら、自分も頑固なので行くところまでいってしまう。経営する会社を分
けることで、衝突リスクを完全に排除している。ビジネスマンとして、心から
尊敬している。
入社して感じたギャップ
現場にPCとEメールがないことに驚愕した。サラリーマン時代は、涼しいビ
ルのなかで法律論を振りかざしていたが、配属されたガソリンスタンドの現
場では、ガタガタ言わずに1円でも稼ぐことが求められた。日銭を稼がない
と、会社が持たないという感覚を始めて知った。
落ち込んだこと
グループに招いた京南オートサービス株式会社の社長に37歳で就任。世
間知らずで突っ込んでいったため、右も左も分からず、途方に暮れる。毎月
数百万のキャッシュ不足を繰り返し、飯も喉を通らなくなる。月末が近づく
と、資金繰りで頭がいっぱいになり、夜も寝つけず、社長業の厳しさを痛感。
どう乗り越えたのか
どん底を経験し、父親の依存心が心の奥にあることをやっと自覚でき、「甘
さ」を認めることができた。借金が数億に膨れ上がり、人生潰れるくらい追い
詰められ、「失うものは何もない。やってやろう!」と覚悟を持つことができ
た。自分を変えようと決意し、食わず嫌いだった「ビジョン言語化」作業をし
たら、翌年からあっさり黒字化した。
今後のビジョン
メンテナンスをキーワードに、クルマと健康分野で、大きく事業を伸ばしてい
きたい。日本には、メンテナンス文化を根差すことが必要。使い捨て世の中
を変えていきたい。株式上場をして、乗数的に会社を成長させたい!
動画を始めSNSコミュニケーションが必須の時代になるため、変化の先頭
を走り続ける。
2代目は頼りないイメージがつきまとうが、「2代目こそ最強」を証明したい。
我々がいなければ、事業や技術の承継ができず、日本は衰退していく。覚
悟を決めて2代目の道を歩むことを決めた後継者を、心から応援した
い!!
理事:高橋 成紀
『運のいい楽天家』油屋三代目社長
どんな学生だったか?
高校から始めたアメフトに全てを捧げた学生時代。中学では帰宅部だったが、自分を変えたいという想いが強く、意を決し過去2度の全国優勝を誇る強豪チームに入部。3か月後に体重が12㎏減。その後まじめに筋トレを継続し25kg増。高校3年で全国優勝を経験でき、その後進学した大学でもアメフトを継続する。
大学では学業と部活の両立で遊ぶ暇もなく、青春時代の多くを犠牲にした代わりに得たものも非常に多く、「あと一歩で日本一」を3度経験。数多くの困難な状況を乗り越えてきたが何事も鍛錬だと思い修行する方が、誰かのせいにして修行するよりも仕上がりが全然違うというプロセスや経験値は今の思考回路の原点に。そして当時の仲間は一生の宝に。
サラリーマン時代
学生時代に部活を最優先するあまり、疎かにしていた分を取り返そうと思い、また、いずれは家業を継ぐことを意識していたため、当時の就職情報誌に短期間で成長できる企業ベスト3に入っていた外資系IT企業に入社。学生時代に続けていたアメフトも社会人チームで継続し、主将を4年間務めチームとして悲願のトップリーグ昇格に貢献する。仕事では会社のブランド力で営業する人が多いことに疑問を感じ、自身のブランド力を高め磨くことにこだわり、ノルマを達成することよりも自身の経験値を上げることを優先する。仕事とアメフトと家庭の高い次元での両立を目指すことで、多くのものを学び経験し吸収する機会となった。多忙な日々を送る中で様々な経験を通して、「人生において無駄な経験や時間はない」という自身の哲学とも言える学びのきっかけにもなった。
入社のきっかけ
実は小学校の時から覚悟はしていた。きっかけは病気の部長の穴埋めのため。
父親との関係
上司・部下の関係だが、それよりも父親・息子の関係が優先。
それ故にお互いタブーな一言が多い。
入社して感じたギャップ
社員の仕事に対してのモチベーションの違い(何の為に働くのか?)
落ち込んだことは?
悩みを抱えるより常にポジティブに捉えて前向きに生きることの方が人生が楽しくなるということを、スポーツやいろいろな経験を通して学んだ結果、楽天家に。楽天家なので落ち込んだり悩んだりすることはほとんどない。同時にどんな状況でも「自分は運が良い」と脳内変換することで、過酷な状況も自身を成長させる糧と捉え、またそういう経験を積み重ねることで心が豊かになり「日常がワクワクしたものに変わる」を日々実感し楽しんでいる。
どう乗り越えたのか?
基本的に落ち込むことは少ないが、自身の価値基準をコントロールすることで、ストレスからも解放され、日々の出来事全てに感謝の想いを持つことで、比較的気軽に乗り越えることができる。
また、周囲の先輩社長や社長仲間と悩みを共有することで乗り越え経験値も上げている。
最近はランニングしながら繰り返し自問自答することで悩みを超越し悟りを開いている。
今後のビジョン
数年に渡り母校アメフト部でコーチを経験し、毎年メンバーが入れ替わる学生スポーツの世界で連覇を成し遂げた監督の元で強いチーム作りや組織のマネジメントを研究し、ビジョンの大切さ、理念の大切さを学び、現在の組織運営にも役立てている。経営理念の浸透を図り、地域や社会に必要な燃料インフラ会社として多く皆様に認知され100年企業を目指す。
理事:山本 佑司
『わがまま戦略』次男坊社長
生い立ち
中学時代にJリーグ開幕。サッカー漬けの毎日。サッカーを続けたくて高校も選択。 が、3年の夏に膝の故障で挫折。特にやりたい事もなく福井工業大学へ。 そこで車とバイクで遊ぶ事を覚える。卒業後は実家の仕事を手伝いながら、 今度はバイク漬けの毎日。峠では飽き足らず、鈴鹿サーキットに毎週のように通う。 特に給料も固定でもらってた訳でもなく、昼間は実家で作業の勉強、夜のバイトで稼ぐ。
それに特に不満もなく過ごす。 ようはやりたい事をやりたいようにやってるだけでした。
バイクから学んだ事
実力の世界、物を使うので腕があってもお金がなかったら勝てない、死んだら終わり、自己責任、やるのかやられるのか、一生懸命やってれば必ず誰かが見てくれてる、何をするにも自分次第。
転機
自分も25歳で子供(息子)を持つことができ、働き詰め。
給料制にしてもらい、やっと社会人。
が、家庭より仕事優先。
仕事優先と言う名の自己満足(もちろん働かないとお金もないが) 自分の事しか考えてない(と今になって思う。この頃は気付いてない) その為に、妻を一人ぼっちにしてしまい27歳で離婚。
父親との関係
自分(職人気質)と親父(経営者)の考えの違いで納得いかない日々。
仮に、喧嘩をしたら、自分も頑固なので行くところまでいってしまう(これは凄くわかる)
親父の経営の仕方では現代では通用しない(もちろん全部ではない)と感覚的に感じるものの、実際どうすれば良いのかはわからない。 高度経済成長期に、一代で起業し続けてきた事は心から尊敬している。
36歳で親父が万歳。
代表取締役を交代。
自分の考えで仕事すれば大丈夫。と言う甘い考えのまま続ける。
やがて、仕事(作業)と仕事(経営)は、全く別のことを知る。
落ち込んだこと
社員が半年で辞めた。
この人の為ならどんな条件でも飲んだし、やってはいけない事など言わなかった。が、半年で退社。
理由は、この先が不安だから。雇用することの厳しさを痛感。
どう乗り越えたのか
自分には全くビジョンがなかったから。
そしてそれは無責任であることに気づく。
自分よりも、周りのみんなが幸せになるなら良い。と言う考え方が まず間違っていたことに気づくことができた。
自分を変えようと決意し、理念を掲げ、目的を決め、成果を出す。
企業理念
一、自分たちのパワーで笑顔あふれる世界に!
一、社会に貢献できる認められた企業へ
一、縁と絆を大切にできる人に
私たちが発信し、源となる。
雇用を生み、利益を出し納税すること。
私たちは、社会でも何でも土台を作ってくれた人の上にいる。
出会いに感謝し、その気持ちを持つ。
一人では成し得ない最大の成果を仲間と掴む。
今後ビジョン
短期目標 来期には年商1億
綺麗にする!の時代。美は究極の安全への道。
中期目標 物より事へ。体験が価値を生む。お金で買えないものが欲しい。
スポーツをしてきた強みを活かして、体験を生む商品の創出。 3年以内に国内外への自転車ツアー、大会運営を実施。 動画配信を始めSNSコミュニケーションの時代に乗る。 その為に生業である自動車業で稼ぐ。
長期目標 我々がいなければ、事業や技術の承継ができず、日本は衰退する。
後進の育成、雇用を増やして地域貢献。 覚悟を決めて2代目の道を歩むことを決めた。 だから、私はやる。
理事:荒木 知太朗
「しくじりまくりのVMV経営」 15代目嫡男
どんな学生だったか?
高校生の頃にハードロックに感化され英語に目覚める。
桜美林大学国際学部に親戚がいたので何も考えずに進学。
一年の前期テストの際に胃腸炎で試験を受けられずにそのまま留年決定。仮面浪人の末に武蔵大学人文学部に入学。
バスケサークルにどっぷり浸かりながらも卒論を全て英語で仕上げSの評価をもらうという奇跡に恵まれる。
サラリーマン時代
大学2年のときに父親が相続対策のために脱サラして起業。
長男ということもあり継ぐことを念頭に金融機関を志望。アメ横商店会会長の叔父さんのコネでなんとか信金に入社。
腰掛けで入ったので成績は最悪…220位/250人中を2年間続けるも、支店長や先輩に助けられ4年目には一桁の成績まで成長。周囲の先輩やお客様の指導で一応社会人として活躍。融資の回収でヤクザに絡まれたりして世間の一般常識を叩き込まれる。
多くの中小企業の社長と面談し上手く行く会社、ダメになる会社の見極めを学んだつもりになる…
ただ、法務、税務、財務の勉強をしないと給料が上がらないのでそこだけはとことん勉強をする。
家業についてから
信用金庫で丸10年修行をしてから家業としていたゴルフ練習場に入る。
当時から地域で一番単価が高い施設であったにも関わらずお客さんにも恵まれて順調に推移していた。日銭が入ってくることも商売であったため特に苦労を感じることもなかった。ただ相続のために始めた会社なので何を目指している会社なのか?という疑問は薄々感じていた。
入ってすぐに代表になる事件
入社4ヶ月でいきなり代表に就任。なんの引き継ぎもなしに「お前が一応社長な」と、とりあえず経営をぶん投げられる。
雇われ社長のような感じであったので…
当然いろいろと社内で軋轢が生まれて…
いきなり来たピンチ
半ば修行をしながら仕事をしていたが、就任3年目の夏がかつてない猛暑に見舞われる。そこで父がいきなり「だれかクビにしろ」と。「ヤダ」と抵抗したが勝手に二人をクビにしたら労基に駆け込まれ炎上。お陰様で労務関係をしっかりと勉強することができた。
大量離職問題からのビジョン経営
解雇問題から「この会社では不安で働けない」と大量離職が発生しメンタル不調に。そこで経営の師匠にたまたま出会い、そのご縁でビジョン経営というものを知り当社にも導入しようとしたが当然ながらまた摩擦が…
★まずは誰もついてこない
★会長は自分の会社を否定されていると思いキレる
お客様からの褒め言葉
念仏のように唱え、ほぼ押し付けで浸透させようとしていたが上手くいかず…
お客様の目につくところにビジョンタペストリーを貼りクレドカードもお客様に配っていたところ、数名のお客様から賞賛をいただく。
「会社が何を目指して何を提供したいのかが理解できる!」との言葉でようやく自信がつく。クレド経営スタートから苦節5年でスタッフにも理解者出始める。
それでも…社長失脚
それでも強引に進めてきた結果ついに会長にクーデターを起こされ代表更迭に。
要因は他にも色々あるが(お金の問題等)、自分が作り上げたものを否定されるような感じが耐えられなかったのだと今なら理解できる。
大規模リニューアル工事
2年前に実施した大規模リニューアル。内装もガラッと変えるにあたってはコンセプトを決めなくてはならない。そこで役に立ったのがヴィジョンとミッション。自分たちが何者でどんなことを目指しているのか?理想のお客様とは何か?何を提供していくのか?
VMVをもとに設計をしてもらい→既存のお客様と新規のお客様にも受け容れてもらう結果に繋がり、増収増益を続けることができる。
それでも会長は気に入らず「リニューアルしたものを壊してやる!」
「お前に会社を潰される」と半年くらいは大騒ぎで…
気付き
VMV は未来を描くことだと思っていたがそれだけではなかった。
★我々はどんな歴史を紡いで来たのか★
★その中にどんなUSPがあったのか★
★先代が創ってくれたものを理解しそれをさらに磨く★
この3点を【しっかりと】語らないと多くの人に響かないのだとやっと気付く。
2代目のVMV
「今は評価基準書にも歴史とUSPを入れるようにした」
こういう歴史があり、その結果こういうUSPがあり、それを発展させいくことが我々のVMVである → ここらへんから父が落ち着くようになりました
今までの失敗を基にようやくVMVも固まる
★プライベートな使命
ご先祖様の預かりもの(資産)で商売をさせてもらっているので預かりものを少しでも増やし次代へと引き継ぐこと
VISION
お客様の元気 従業員の元気 地域経済の元気に貢献する
MISSION
お客様に心地よい時間と空間を提供し、地域の人々が心も身体も元気になってもらうことを目指します
VALUE
元気 感謝 陰徳 応援 (「諧謔」を加えようと思っています)
監事:楢原 一典
「お客様のありがとうがモチベーション」2代目税理士
どんな学生だったか?
高校生までは平凡で真面目な学生。
親の意向で、大学は政治経済学部に進むも学部の勉強に興味が持てず、授業には全くでなくなる。この頃、悪い友達が増えて色々な遊びを学ぶ。
親の意向で、会計士資格取得のための専門学校のダブルスクールを始めるが、資格試験をすることが嫌で嫌で仕方がなかったため、こちらも授業を受けなくなり、ドロップアウト。
結局、大学3年間遊び呆けてしまい、周りを見回したら、みんな就職活動で仕事が決まっており、そろそろまずいなと思いなおし、専門学校に再度申し込みをする。
サラリーマン時代
大学卒業後も浪人しながら資格試験にチャレンジし、2度目の受験でかろうじて合格(都合3年かかる)。合格後は監査法人に就職、勉強し過ぎた反動で失われた3年間を取り戻すべく、週2で合コンをする。
監査法人は、頑張れば頑張るほど、クライアントに煙たがられるのが嫌で4年で退職し、 税理士法人に転職。この頃、弟も資格を取得し、実家は弟が跡を継ぐことになる。
入社のきっかけ
敷かれたレールの上を走っていると言われるのが嫌で、自身で独立開業し、10数年経営。その間に実家の手伝いで戻ったりもしていたが、自分の子供の頃から知っている社員もいて居心地が悪く、早々に退散。
その後、法人の東京本部のサポートのため自身の事務所が吸収される形で合流する。
落ち込んだこと
親を超えることが2代目の呪縛から解放されるときと思っていたが未だに親を超えたと言える実感がないこと
どう乗り越えたか
乗り越えたわけではないが、最近は2代目という事をやっと素直に受け入れられるようになった。
今後のビジョン
元々自分には向いていないと思い、心底やりたくなかった家業ではあるが、やってみたらこんなにやりがいがあって、しかも自分に向いている仕事であった。そういった意味では、無理やりにでも引きずり込んでくれた両親には感謝しかない。
先代が果たせなかった夢を叶えるのが2代目の使命であると考えている。そういった意味では、税理士法人の規模を拡大させ、業界内で認知されるだけの存在になることが次の目標である。
おまけ
田舎暮らしをしたい 女性は苦手 押しに弱い
会員:音田 崇幸
大田区オタクの温泉税理士
税理士法人おおた総合会計事務所代表社員副所長の音田崇幸です。 二代目の公認会計士・税理士として、大田区を中心としたお客様に総合相談・総合手続業務を行っています。
父親との関係
事業承継に関する会での自己紹介として、まず現所長である父との関係に触れなければなりません。 私が幼少の頃、父は1年365日のうち360日は外出していて、夕食を共にしたことが ほとんどありませんでした。仕事・兼・飲歩きの毎日だったのでしょう。お客様である大人達から「音田先生」と呼ばれ、 お中元お歳暮のシーズンには山のような贈答品が自宅に届くので、父はすごい人なのだ、と子供心に思っていました。
入社のきっかけ
そんな私は反抗期を迎え、公認会計士である父と関連する経済学や、母の出身学部である法学は断固としてイヤと思い、進路には社会学を学びました。 ところが兄と妹に挟まれた三人兄妹の真ん中である私はものすごいさみしがり屋で、大学の「疎」で自主独立を重んじる人間関係になじめず、 とうとう体を壊して入院してしまいました。 大事な時期でしたので結局就職も思うように行きませんでした。そんな時に父に拾ってもらい、父の事務所で事務員として働き始めました。
どう乗り越えたのか
私は、ここぞという時の集中力はそうそう負けない自信があります。がむしゃらに仕事と勉強に打ち込み、公認会計士・税理士・ 特定社会保険労務士・特定行政書士・フィナンシャルプランナーの資格を取得し、それぞれの業務でチャレンジして十分な実務経験を積みました。 そうすると、それなりの社会人として周囲に認めてもらえているという自信が付いてきました。 しかしその自信というのも、父や家族が環境と整えてくれ、時には私をけしかけて私に思う存分やらせてくれたからで、 父や家族のありがたみを強く感じる日々を過ごしました。父には、感謝しきれない程に感謝しています。
今後ビジョン
そのような過程で、おおた総合会計事務所のやってきた、そしてこれからもやっていきたい基軸のようなものを、自分自身の人生に基づいて自分なりに言語化しました。 その基軸は「ライフトータルサポート」という、人生を共にする支援・相談のイメージで表現でき、三つの要素があります。
①私の学問上のバックボーンである社会学は、「複線思考」という、自分ではない人は物事をどのように見ているのか?ということを常に意識する少し変わった学問であり、 それはお客様との相談の際に常に意識し、頭ごなしの説得ではない相談業務に活きています。
②私の入院経験は、他者の痛みや困難さ、障害を知ったり慮ったりする習慣となって私の人格形成に影響しましたので、相談業務の際にお客様の心情に寄り添うことができます。
③そして私の複数資格と豊富な実務経験は、お客様にお目に掛かる当初から信頼していただき、総合的な手続き実行を通じてご満足くださるために活かされています。
私自身が事務所での営業活動を担当するようになり、それなりに自信が付いてきまして、それに伴い現状では父とのケンカが頻発しているような状況ですが、 私の絶対に譲れない基軸として「父をはじめとした家族への感謝・恩返し」と「お客様へのライフトータルサポート」があります。 私が立ち上げた新規事業である社会保険労務士業務は未だ小規模ですが、拠点、人材、マーケティングの構想を練り、税理士法人からのスピンオフを画策しているところです。
また、税理士業務と社会保険労務士業務に通底するマーケティング戦略として、「大田区特化」を打ち出しました。基軸である2点の実現のために効率の良い考え方だと思っています。
今後はこの軸で大田区での総合相談・総合手続業務に邁進していく所存です。
私は、近い将来に来るべき父の引退を見据え、長期的な視野も忘れずに事務所の体制構築と自分自身の経験のより一層の蓄積を行っている最中です。二代目としては未だ道半ばですが、どうぞよろしくお願いいたします。
会員:若菜 義大
『初志貫徹に生きる』2代目社長
第二の故郷は青森とブラジル!
どんな学生だったか?
幼いころからプロサッカー選手になるのが夢でした。地元の中学から青森山田高校へ特待入学、1年時は単身ブラジル留学、2年でポジションをつかみ取るもオーバーワークで血尿やアレルギーを経験・・・。また初めて全国大会出場。3年時には2度の全国大会でベスト4を経験するも「プロ」のすごさを目の当たりにし、両親への感謝から造園の道を志す。
入社のきっかけ
高校3年の春にセレッソ大阪とベガルタ仙台の2チームのスカウトから声を掛けてもらい練習参加(この時までプロ志望)。その夏のインターハイで全国ベスト4を経験(この頃から気持ちに変化)。秋に清水エスパルスと試合をし、「プロ」の本気と現実を見る。最終的に冬の選手権で2度目の全国ベスト4を経験し、両親への感謝から造園の道を志したことに後悔はない。
充実の修行時代
造園の専門学校を卒業後、わかな造園に入社。管理業務が多く、もっとクリエイティブな仕事がしたいと思っていた矢先に、大きな仕事のチャンス。この時の経験で、より自分を高める必要があると思い、他の造園会社にステージを移す。朝から夕方まで現場、夜は設計や座学と造園漬けの生活を3年送り、この時取得した資格は国家資格含め6つ。
父親との関係
いわゆる職人気質の人間でよく現場で怒られ、「なんでこんな言い方しかできないんだよ」とぶつかり合っていました(笑)でも20年経って様々な職人を見てきて知識やスキルの高さは父から学んでいて良かったと今は感じています。現在はだいぶ穏やかに?職人の育成に尽力してくれています。
入社して感じたギャップ
どんぶり勘定と請求忘れの多さ。感覚的な利益で数字を全く気にしていなく見積もりも曖昧だったり、甘いことが多かったです。結構、顧客から「請求書きてないんですが・・・」とご連絡を頂いたりと、今思うとよく生き残ってこれたなと思います。また社員がいなかったので、教わる人が父だけでした。
落ち込んだこと(転機)
経営者の仕事を学ぶ機会に巡り合い、愕然とする。このとき数名の社員がいましたが、自分のやっていることはプレーヤーであってマネジメントではなく、そもそも「何の為」に仕事をしているのかを突き詰めて考えるきっかけ。
若菜の人生最大の理不尽:大切な社員との突然の別れ
どう乗り越えたのか(現在進行形)
経営理念・ビジョンの明文化と社内外共有。私たちはどんな理念の基、何を提供し、社会に貢献している会社なのかを社員や協力業者、顧客にも分かるように明示し、自己肯定感を高めあう環境整備を行っています。3年間は利益より人材共育に刮目する。
亡くなっても意志は生きる。弊社の永遠のテーマ「最強のチームづくり」
今後のビジョン
国内で失われつつある日本の庭園文化を海外展開できないかと模索中。実際にベトナムでのニーズと寺社のマーケットを掴み、チャンスが広がっている。現在、ベトナムから技能実習生を招致し、造園のスキルや知識を承継後に彼らをベースとした現地法人を開設する。
またVRやARを活用したハイスペックなパーソナルガーデンの提供ができないものかと、こちらはぼんやり模索中。メリットとしてターゲットマーケットが無限に広がる。今までのマーケットはお庭をお持ちの戸建て層という固定概念をぶっ壊せるのとそもそも海外展開する際には映像を持ち出すのは手っ取り早いこと。四季や昼夜の映像(ライティング)なども自由に表現できる。
会員:芝田 麻里
おっとりお嬢ちゃん二代目弁護士
芝田総合法律事務所 代表弁護士
どんな学生だったか?
東京都大田区で生まれる。
小学5年生まで埼玉県草加市で育つ。
両親ともに奄美大島加計呂麻島出身。
父は弁護士。
一つ違いの姉は学校開闢以来の秀才と言われ、周囲の期待を一身に集める。
当然、将来は弁護士。
子供心に自慢の姉。
姉のおかげで誰に期待されることもなく、
幼少時代(小学生時代)は自由に川でザリガニをとったり、虫と遊んで過ごす。
大学時代。
テニスサークル等、いろいろ所属してみたものの、
「法学研究会」と肌があって定着。
周囲に勉強好きで優秀な友人が多かったため、
もっぱら試験直前期にノートを回してもらって、
3年までの間に単位を取得。
4年になり、友人たちが就活にいそしんでいる頃、
ふと弁護士になろうと考え、勉強を始める。
受験勉強時代
23歳。大学卒業1年目。
当時の司法試験の択一試験(一次試験)に合格する。
難関といわれた択一に意外と早く受かったことに
気をよくして、「そのうち受かる」気分になる。
「20代のうちに裾野を拡げておかないと
それ以降で新しいことをやろうとしてもムリ」
という趣旨の書籍に出会い、
「20代は興味が向いたことを手当たり次第にやる」。
(「司法試験受験生」というのは周囲向けのステイタス?)
1年間に映画を300本以上観る×3年半
塩野七海(古代イタリア史、中世イタリア史)、
宮城谷雅光(古代中国=春秋戦国時代)の既刊の書籍を完読。
29歳。未だ合格していない自分に気づく。
あらかた裾野を拡げることに満足したので、
試験勉強にまじめに取り組むようになる(真剣度70%程度)。
31歳。3年程度「まじめにやったつもり」でも受からない(自己流が通用しない)ことに気が付く。
32歳、33歳。論文試験に1点差で不合格。
本気スイッチが着火
司法試験は、
「下りのエスカレーターに乗って駆けあがっているよう
なもの。スピードを緩めるとどんどん下がっていく。」
34歳。択一試験でかつてない合格には程遠い点数をとり
「もう受からない」気持ちになり落ち込む。
35歳。択一26点。合格が見えなくなり、
諦めることを考え始める。
合格した友人に
「諦めるなんて許さない」、「自習室で一緒に勉強しよう。」
と言われ、半ば強制的に勉強を再開。
友人に勉強方法について徹底した指導を受ける。
指定された方法で勉強時間をストップウォッチで管理しつつ勉強を再開。
応援してくれる友人ために「やるべきことをやる」と決意。
37歳。択一46点。一点差で択一不合格。
ロースクール制度が始まり、旧司法試験は廃止されるため
翌年の合格予定人数は100人。
38歳。択一58点。最終合格。口述試験は12位。
どうして弁護士を目指したのか?
小学生の頃、友人に「お前のお父さん悪者の味方」と
言われ、父に話すと、ビクトル・ユーゴ―の
『レ・ミゼラブル』について聞かされる。
『レ・ミゼラブル』は主人公が貧しさのあまり
空腹の甥っ子のためにパンを一切れ盗んだところ、
19年間投獄された、というところから話が始まる。
盗んだことは悪い。
しかし、パンを一切れ盗んだのに対し、
19年間の投獄は明らかに重すぎる。罪刑の均衡。
主人公はまじめによく働いていること、
それでも貧しく、幼い子供に食べさせるために
やむなくパンを一切れ盗んだことなどを
誰かが主人公に変わって説明してくれたら
彼は19年間も投獄されずに済んだかもしれない。
そういう事情を、本人に代わって説明するのが弁護士だ。
といわれた。
それを聞いて直ちに「弁護士になろう」と思ったわけではなかったが、
その話はいつも心の中にあり、
大学4年になり、周囲が就活にいそしんでいる頃、
自然と弁護士になろうと思った。
父親の仕事をどのように見てきた?
高校生、大学時代から仕事の話をよく聞かされた。
司法試験受験生の頃を通じて事務所でバイトをしながら
父の仕事の様子を見て父の仕事のやり方を学ぶ。
廃棄物処理法に関する問題を専門としており、
「強きをくじき、弱きを助く」が父のキーワード。
弁護士の仕事は訴訟が提起されてから、考える、いわゆる訴訟弁護士。
今後ビジョン
廃棄物処理法に関する問題を専門とする特色を活かしつつ、
訴訟弁護士から「かかりつけ弁護士」へ
予防的司法の観点から業務を拡大していきたい。
顧問先の拡大。事業承継、M&Aのデューデリジェンス、
行政交渉などフィールドを広げたい。
特に、廃棄物関連は、法律の縛りが強く、
普段の日常業務についての顧問(契約書の確認、適否のご相談等)をしつつ、
行政に違法を指摘されることのないよう安心安全な業務を
行えるよう助けていきたい。
また、仮に違法を指摘された場合には、
迅速かつ的確、丁寧に行政に対応できる事務所を作っていきたい。
できれば、銀座に50年続く事務所として、
銀座の商店の事業承継を手伝うことによって、
銀座を元気にしたい。
会員:阪田 大樹
『理想を求める夢想家』 長男2代目社長
寅年 巨人ファン(元)
ラッキーカラー 緑
性格
0歳~44歳まで
何でも自分でできると思うナルシスト
44歳~46歳現在
自分一人では何もできないと気づき
性格の角がとれ、丸くなる。
皆でワクワクすることをしたい
ビルメンテナンス(総合ビル管理会社)
文京区で創業43年
年中無休24時間体制 緊急出動対応
①ビル清掃・ビル点検(エレベーター・消防等)
②電気工事・エアコン工事(取付・クリーニング)
③内装工事・外壁工事・防水工事
④賃貸借契約(不動産免許あり)
⑤苦情受付及び処理・家賃請求の事務処理
入社のきっかけ
君は、何でこのビル管理会社で働いているの?
はい、プー太郎だった僕を父(先代)が拾ってくれ
やがて2代目社長として親の後を継ぎました
19歳に早朝アルバイトから始め(清掃業務)
21歳に社員になり現場工事部隊(設備課)で内装工事・点検作業をし
26歳で営業部配属され、電話応対・顧客回り(清掃・設備同時業務)
36歳で父が亡くなり2代目社長になりました
31歳まで給料をもらったことがなく、
確か31歳の5月に初めて初給料として8万円もらえました
私も、その時にやっと父から認められた感じがしました
父親との関係
田澤『ちょっと聞くけど19歳でアルバイト、36歳で2代目社長になってあなたは今46歳だけど会社で今まで何してきたの』
阪田『先代の父が私にとってカリスマ的な存在で、父の言われた通り早朝5時起きで、現場に6時に入り早朝清掃し(清掃業務)夜は父が夜のお勤め(夜遊び)の運転手をし(夜中の1時)昼間は電話番・事務仕事・顧客回りで、原状回復(内装工事)に駆り出されたり31歳まで無休で父に仕えておりました
36歳で2代目になり、父の運転手の仕事からは解放されましたが亡き先代の言う通りに早朝~夜9時頃まで仕事してました』
田澤『えっ、それじゃあなた親父さんの言いなりじゃない。しかも、お父さん亡くなったんでしょ!自分の考えないの、よくそのなんで2代目社長なれたね』
阪田『確かに36歳~44歳まで父の呪縛ずっと囚われていました。
はじめは、いきなり自分の理想を古参の社員に押し付けたら拒絶されうまく行かないと思ってたので従来通りの先代に言われた通り振る舞い、2代目社長と言えども古い慣習に従う振りをしておりました。
しかし2代目になって8年間変わらない日々を過ごし時の砂に埋もれ、理想をかかげるのが面倒になりました』
落ち込んだこと
阪田:44歳の頃に異業種交流会に入会し、個性的なメンバーと一緒に毎週ミーティングをやる事で刺激を受け、2代目社長なった当初の怒り(長男という理由で無理やり継がされた)を思い出しました。何が古参だ、先輩だ!、俺のやり方で会社を染めてやると気持ちが転換しました。異業種交流会は、僅か1年で卒業しましたが、苦しい思いし自己成長できたので良かったです!また、色々な人脈ができて時間はかかりましたが、具体的に理念や何をするか少し固まってきました。
会社の理念
・皆が集まって、楽しく暮らせる社会を創造する
・ビルの価値を上げ、お客様の価値を上げる
・本当に住みたくなるような安心、快適、オシャレな環境を創造
・プロのビルコーディネーター
・良き文化は保ちつつ新しい風を引き起こす
・数字とビジョンが予めハッキリ見通せるからこそ希望が持てて、モチベーションに繋がる
今後のビジョン
・清掃作業員にホテルマンの格好をさせホテルマンの振る舞い(仕草・挨拶)をしてもらう(ここのビルに来たお客さんに特別感を与える)
・ビルオーナーさんに3年先・5年先・10年先・30年先ビル修繕計画及び資産運用(家賃収入)の数値を提出し、先々の提案
・ビルオーナーさんの相続問題を解決
・玄関エントランス、エレベーター内、共用廊下外壁を彩り
(四季に合わせた演出・近未来・映像装置)
ビルに来る人に感動を与えるエンターテインメントを提案
・コーティングや大量マイナスイオンでビル内の空気を最高のものにすることを提案
・防犯、防災、非常時の備蓄(食料、電気)など緊急事態の備えを提案
・AI等(予算内)テクノロジーを提案
今後は、自分を信じ、信念に基づいて、仲間と共に進んでいきたい。世の中へ明るい希望の光となりたいです。
会員:村田 弘子
「事業承継をM&Aでなく結婚で解決します」2代目税理士の妻
一般社団法人良家の結婚相談士協会 代表理事
どんな学生だったか?
10歳から大学受験までは1日8時間ピアノに向かう、音楽家志望。
ところが、高3の夏、親に呼ばれ、「やっぱり音楽は食えないから、女子大に行ってさっさと嫁に行け」と言われ、ショックを受ける。「だったら、最初から音楽をさせないでよ」と恨めしかった。
親のすすめで女子大に進むも、勉強したいことはひとつもなく、コンパばかりの女子大生活は時間の無駄だと、授業にはでなくなる。なんとかして音楽をやりなおせないかと、親に中退を申し出るが、「卒業してからやれ」と言われて、言いなりになる。
やりたかったことの道を閉ざされたため、やる気を失い、「もうこうなったら、チャラっと生きてやる」と決意。就活時は、「立ち仕事」を選び、局アナやCA、販売職を受験した。「立ち仕事」が、どうしてチャラいのかよくわからないが、当時の自分はそう思ったようだ。
その後「飛行機が落ちると心配だから、CAはやめてくれ」と母に泣かれ、和光に入社。
かえすがえす、親のいいなりの主体性のない長女であった。
サラリーマン時代
女性の職場なので出会いはあまりなく、2年目のときに学生時代からの交際相手との破綻を機に、「恋愛なんてあてにならない、今、結婚しよう」と決意。OGからのお見合い話に、何も考えず、「はい、私が行きます」と即答。お見合いをした翌月の確定申告終了日、東京会館で結納となる。
入社のきっかけ
結婚したら、家業を手伝うようにということは言われていたし、新婚旅行から帰ると、義母がそろばんを片手に私を待ち構えていたため、自然に会計事務所入所。
落ち込んだこと
結婚したらすぐに、「子どもを3人以上、そのうち一人は男子を生み、その子を会計士に育てなさい」と言われたこと。男女産み分け注射を打ってきなさいと言われたこと。嫁には人権がないのかなと思った。
どう乗り越えたか
経済力が自分になかったため、乗り越えるという選択はなく、今は人生の下積み期なのではないか、ということで自分との折り合いをつけた。私が乗り越えたのではないが、結果的には神様の同情を買い、一男二女に恵まれ、グレていた息子も最後だけ勉強して資格取得。いちおう、宿題は達成できた。
親からのプレッシャーに常におびえ、卑屈に反抗してきた私だが、3番目の子が大学受験を終えたあたりで、「誰か娘にいい人を紹介して」と言われることが続き、ならば私がと、義父がしていた仲人を事業として開業した。
そこから8年、「全国の中小企業の社長令嬢令息の結婚問題を解決することで、後継者不在による廃業を食い止めること」一筋に、一つでも多くのご縁をまとめたいと、365日東奔西走している。後継ぎ後継ぎと言われることがイヤでたまらなかった嫁だったが、今になり、義父の「継ぐ」ことへの執念を理解するようになった。鬼だった義父は、今は、社長の不屈の精神を教えてくれた、大切な恩人である。
今後のビジョン
後継者不在による廃業を食い止め、オーナー家の人的資本の創出から、少子化の日本の経済を衰退から発展に向ける。
会員:武藤 清晃
「流れ流され今にいたる」2代目お坊ちゃん保険屋
どんな学生だったか?
学生時代はまったく努力もせず。勉強もほとんどしませんでした。入れそうな高校になんとなく入り、学校の先生にオススメされた大学になんとなく入りました。
サラリーマン時代
学生の頃から親が社長やってるから後を継げば俺も社長になれるぞ、ぐらいに考えていたので、とりあえず修行としてまずはサラリーマンをやるべきなんだろうと考えてはいましたが、リーマンショックのおかげで買い手市場になった事に加え、私自身の人間性の無さを人事担当の方にことごとく見抜かれ、まったく上手くいかず。最終的には就職が決まらぬ事を母が保険会社の担当営業に愚痴った事をきっかけに1年間の研修という名目で保険会社の直属営業として拾ってもらいました。 1年間の研修時代も、本人なりに頑張ったつもり(今振り返れば、まったく努力が足りてませんが。。。)でしたが、ここでもまったく芽が出ず。。。 今の時代ではビックリするような厳しい言葉も頂きました(言う人の気持ちも分かるし、結果を残さない自分が悪いので何も言えず。。。)
入社のきっかけ
そんなこんなで1年間の研修が終わり、今の自分の会社に入社。監視の目も無くなり、後は開放されたぞ!と甘えを全開にしていた所、入社半年で社長である父が脳の病気で長期入院。後遺症も残り仕事の能力は半減してしまいました。会社と言っても実務を行っていたのは父1人で残りは事務を行なってくれるパートのおばちゃんのみで入社早々、窮地に追い込まれました。
落ち込んだこと
「お父さん大変だと思うけど、頑張ってね応援してるよ」と笑顔で言ってきた同業者が実際は裏でウチの仕事を奪いにかかってきてるのを知って人間なんて簡単に信用してはいけないものだなと感じた事
どう乗り越えたか
とにかく仕事にがむしゃらに取り組んだ事で、なんとか会社を守ったこと
今後のビジョン
この業界では会社の規模を大きくする方法も形もある程度、固まってしまっているし、保険会社に比較すれば小さい存在ですが、既存の形を破っていきたい。どんなにネットが普及し、保険会社の価値観が変容しようとも、自分の軸を貫いて、本当に地域に求められる会社でありたい。
おまけ
友だちと趣味でYoutuberやってるので、そちらも見て頂けると嬉しいです!
会員:名取 和正
『何事もおかげさま』 三代目候補
どんな学生だったか?
日本大学高等学校→日本大学理工学部でコンクリートの研究にハマる。
水泳でインターハイに出るほどまでに打ち込んだが、社会人になったらスポーツなんてお金にならないんだからと、本腰入れてやってなかった冷めっぷり。基本推薦で大学まで来てるので、就職も人事の方に気に入ってもらう戦法で、インターンでコネを作り、難なく入社。
サラリーマン時代
橋を架けたくてゼネコンに入社し、東横線・副都心線直通工事の計画にて、自由が丘駅のホームを夜な夜な伸ばす計画を担当。今では信じられない程の圧力で有名な先輩社員にしごかれる毎日。うつ病診断されながらも耐え続け、一年目から大抜擢か不明だが、責任者をさせられる。プレッシャーで押し潰されながらも、工事完了し、電車が無事通ると涙が出る。とても貴重な経験をさせてもらった。
入社のきっかけ
期待していた社員に独立すると巣立たれ、今後どうしようかと考えていた社長(父親)。相談されても帰る気は無いと伝え、でもなんか引っかかる。せっかく長く続いた会社。その時、お世話になっていた保険屋さんからのひとこと。「継ぐのも親孝行の一つだよ」、その言葉に妙に納得し、入社を決意。
父親との関係
心配性な父と、楽観的な自分。一つ一つに対しての物事に心配をする父親のペースには付いていけない面もあり、話していて結構疲れる。
でも、根本には「ここまで育ててくれたことへの感謝心」が強く、今でも父が社長でいる限り、立ててあげようと心から思う。
入社して感じたギャップ
組織化していないため、基本野放し。ゼネコン時代はチームで動いていた。情報は共有しながら、間違いが無いように確認しながら進めた。入社してからは、一人で見積~現場管理~請求~アフターサポートまでを担当。
それぞれに時間がかかり、提出物が遅くなる、残業増える、余計に任せられない。負の連鎖しかない。
落ち込んだこと
人の汚さを痛感。「払うからとにかく仕上げて!急いで!」に信用して工事を終わらせ、いざ請求すると、一部は愚か、1円も払わないで蒸発する人は少なくない。人を紹介されることに恐怖を感じる。この8年、1500万近くは貰えず、連絡つかなくなった人も数人。建設業ってこんなところなのか。。仕事した分保証されているサラリーマン時代はとても恵まれてたと実感。
どう乗り越えたのか
当たり前のことをやってなかった。甘んじて、「契約書の押印」を省いたり、相手の口車に載せられるがままに動いていた。一見さんなら頭金をもらってから工事に入る等、リスク回避の方法を勉強し、実践し、更には怪しい人は直感で本当に怪しい人だとわかるようになった、鼻が利くようになった。
今後ビジョン
建物の高寿命化を図りたい。
漏水はその日に来ない。明日、来月、来年にくる。それまでは分からないからこそ、健康診断が必要である。万が一漏水してしまったら、対処療法では絶対に完治しない。根本原因の解決が全て。それを見つけ、直してあげる。それが弊社にできる精一杯の努力、貢献である。
会社にビジョンがなかったからこそ、自分の気持ちを体現できる。
現状に感謝し、もっと価値ある会社を目指していきたい。
会員:山田 慶一
『ロックンロールおぼっちゃま社長』(予定)
幼少期
小学生から超野球少年。年齢が上の代のチームに交じるもレギュラー奪取。
チームが優勝してなくても大会MVPを獲得するほど活躍し、メジャーリーガーになる夢を持つも中学時代にアキレス腱や肘のケガにより夢を断念
学生時代
野球断念後、ロックに出会いのめりこむ。
歌うよりもギターが楽しかったため、ギタリストととしてプロを目指す
大学卒業後もギターに没頭し、25歳まで音楽活動を継続。
プロミュージシャン達と対バンしたりメジャーレーベルから誘いも来るようになるが、メンバーが失踪し解散。
そろそろ潮時だなと悟りサラリーマンになることを決意
サラリーマン時代
社会人生活を満喫・・・と思いきや、入社したのが超がつく程のブラック企業であったため、精神的に病み、体調も悪くする。それでも「石の上にも・・・」と3年は続ける
入社のきっかけ
この先この会社に居ても何も成長出来ないかもしれないと思い、転職を決意。
やりたい事があったわけではなかったので保険代理店の社長を務める父に相談したところ保険の代理店として独立出来る制度がある事を知る。なんとなく良いかな、と思い軽い気持ちで父と同じ道を歩む事に。
仕事をしていく上で選択肢が拡がり、何も知らずに一からやるよりも、今のうちから間近でノウハウを学びながらの方が将来の為になるかも?と考え、一人で独立ではなく父の会社を継承するコースに変更する⇒2年間の研修生活を過ごす
父親との関係
父の代理店に入社。
父とは見た目も性格も全く違うため、他の社員やお客様、各保険会社の担当など様々な人間から何かと父と比較され続け嫌気がさしながらも、「自分のお客様」を増やす事を念頭に日々奔走中
今後のビジョン
元々父の他には社員が2名の小さな会社のため、企業理念や将来のビジョン等は存在しなかったが、世の中に必要となる企業となるためには今後必ず必要になるため、今後は企業理念の刷新や社内インフラ整備、組織化等あらゆる問題に少しずつ取り組んでいく予定
会員:坂田 晃一
「関わる全ての人を笑顔に」2代目新聞店
有限会社坂田新聞店専務取締役
オレンジサンシャイン代表
どんな学生時代を過ごしていたか?
中学、高校はサッカー、大学はゴルフとスポーツを真剣にやっていた学生時代でした。明治学院大学を卒業後はハワイのカピオラニコミュニティーカレッジに留学して異文化での経験を積みました。
小学生の頃から、放課後には学校が終わると3~5人が常に遊びにくるような環境だったのもあり、チームメイトと喜びを分かち合えるスポーツを今思うと選んだと思います。それもあってか、大学のゴルフ部もチーム戦では最優秀プレーヤーなどを3回受賞するなど成績を出しましたが、個人戦は振るわない事が多かったです。
父親からは「お前には自然と人が寄ってくるな」と言われるように、昔から人にはすごく恵まれていたと感じています。
他社で働いていた時代
本の大学を卒業してから、ハワイに留学し、カピオラニコミュニティーカレッジを卒業後、イタリアのアパレルブランドDIESELで販売員として働きました。海外の成果報酬型が強い給料体系を目の当たりにするなども含め、チームで働きながらも個の力の重要性も認識しました。一定期間で測られる売上比率で全米ナンバーワンを取ることも出来、いかに目の前の人にとって本当に必要としている物を提案するかという事と、お客様に寄り添うコミュニケーションの重要性を実感し、それを日本に戻ってきてからも大切にしながら仕事をしています。
入社のきっかけ
2011年の8月に入社しました。その時に、ビザが切れるタイミングもあったのと、いずれ家業は継ぐことになると考えた時にみんなが大変な時に時間を共有することが、信頼関係の構築のスピードを速めると感じ入社を決意。
入社して感じた事
入社して1カ月は現場をみたり、色々な人に話を聴くだけでなく社内アンケートを実施。
会社の大切にしている部分が伝わっている部分と伝わっていない部分があるのを感じたのと、公平のようには見えるけど、公正さに欠いている部分があると感じました。そして、父のカリスマ性を活かしたトップダウン式の経営だったのをボトムアップ式に変えないと社員の成長と未来はないと感じた。そこで、意識を共有するための会議や評価制度は公正さを意識して作り変える事にしました。
落ち込んだこと
父が業界の中で有名な事もあり、かなりの色眼鏡で見られました。妬みややっかみだけでなく事実ではない批判なども経験しました。父に気を遣うあまり、奇妙な特別待遇などもあったのは自分としては嬉しくなかったことでした。
そして、新聞業界自体も景気が一気に悪くなり、赤字を出していなかった会社が自分が入社した後から赤字になる事があった事です。
どう乗り越えたか
色眼鏡で見られている評価を全て覆してやると決意し、まずは周囲が認める結果を出す事を心掛けました。成果と共に自らの意志や想いを大切にしたうえでコミュニケーションを取ることで、「坂田晃一」として見てくれる人が多くなりました。その結果ビジネスの幅も広がり、会社だけの付き合いでなく個人としての付き合いも増えました。覚悟と情熱を持ってやることが変化を与え、周りを巻き込んでいく事に繋がると実感しています
今後のビジョン
新聞販売店のイメージ転換をはかり、地域のお客様にとって「あって(在って、会って)良かった」と思われる新聞販売店を作っていきたいと思っています。
そこに在ってよかっただけでなく、坂田新聞店に出会ってよかったと言われるために様々な情報の提供だけでなく、新しい人、商品や体験との出会いを創っていきたいと思っています。デジタル化も必須になりますのでそこを推進しつつ、新聞代支払いを引き落としにする販売店が多い中、弊社ではお客様と会ってお金を頂く事を大切にしていますのでお客様との関係性強化や、直接お客様からありがたい言葉を頂く事でやりがいに繋がるように人を育てる企業になっていきたいです。
地域にとって無くてはならない存在になっていくのが最終目標です
会員:泉 基幸
「お客様のありがとうがモチベーション」2代目社長
どんな学生だったか?
スポーツ一筋な学生で中学は陸上に励み、高校からはバレーボールを真剣に取り組んでいました。
大学受験に失敗し、浪人の選択はなしに専門学校で親の後を継ぐことを意図して設備科を選択して勉強をしていましたが、周りの学生たちは遊ぶための入学だったので、アホばかりが集まっていました!なのでその時は自分が賢いと錯覚してしまっていました。
サラリーマン時代
専門学校卒業後、父親の会社が取引していた設備工事業の会社に修行という形で入社し、約4年お勤めをしました。
そこで、設備工事全般の経験と、職人さんたちとのパイプを作れたことが今の私の源として感謝をしています。
バブル崩壊後の入社でしたが、建築業界は余韻があったみたいで職人さんたちの言葉に踊らされ、上司の名刺とサインをすることでラウンジでお酒を飲むなど不良社員でした♪(後で怒られる)
入社のきっかけ
中学生のころから家業の手伝いを夏休みの数日していて、ものを組み立てる事や仕事として完成していく事に興味を持っていたので専門学校を選択した時から家業を継ぐことは決めていたので4年間設備工事店で修業という形で働かせてもらった後自然に会社にもどってきた感じです。
落ち込んだこと
メンテナンス業から工事店へ変革するにあたり、修業時代につながった職人さんたちと仕事をすることとして、改めてお金のやり取りに苦労をしたことが自分自身の思惑と相手の思惑が違って一時落ち込みました。
その結果、ストレスからくる腸捻転となり体もしんどかったです。
どう乗り越えたか
全てが自分自身の責任ととらえることで、経営すら自らがやることにして代表も変更しましたし、内心で人のせいにすることをやめていきました。
今後のビジョン
下請け業が8割を占める会社ですので、自ら提案して事業を拡大させることを基に確実に事業承継をすることで100年企業にします。
そのために、新しい取り組みとして地方自治体向けに避難所指定の体育館へ床輻射の冷暖房システムを提案実施し、公益性高く、自社の強み発揮できる事業をを確立させる。
様々な可能性にチャレンジする企業として経営していきます。
会員:引田 和幸
『ボンボンと言われることが嫌だった』2代目社長
どんな学生だったか?
高校生まではごく平凡な目立たない学生生活だったと思います。
中学までは転校ばかりで幼稚園2か所、小学校2か所、中学校も本来行来たかった場所には学区の問題で行けず転校という形になりましたので合計3回の転校をしました。そういうことではある意味目立っていたかもしれませんね(笑)
その後やっと親も落ち着いて腰を落ち着けたからなのか、高校生になってから始めたサッカー部の部活に専念し、ゴールキーパーとして埼玉県東部選抜に選ばれることができました。同時にバンドも始め、『BOΦWY』に憧れベースギターを弾き始めました。彼女が初めてできたのもこの頃で、戻れるなら僕が一番戻りたい時代ですね(笑)
また、父親が運送会社を設立し、僕に『将来どうするんだ?』との問いに、『どうせ作るなら継ぐよ』と軽く言ったら、『和幸流通サービス』という僕の名前が入った会社が誕生致しました。この時点で僕の人生のレールが引かれた訳ですが、この時はまだ使命に思い素直に父の会社に入社するのだと思っていました。大学には行かずに専門学校に入ってSE系の勉強をしたのも、運送会社で活用できればという思いからでした。
サラリーマン時代
某上場運送会社の本社電算部という部署に配属され、僕のサラリーマン時代はスタート致しました。
しかし入社5か月後、当時バンドを組んでいた仲間が某大手生命保険に勤務していて、同じ場所で働いた方がバンドの練習がしやすいという安易な理由で転職致しました。
その後2年間生命保険会社で営業を経験致しました。
入社のきっかけ
父親からの『そろそろ運送会社で働け』の言葉により数社の運送会社を面接致しました。そして、明日から入社が決まった運送会社に出勤という時、父親から『ドライバーが辞めたから明日からうちには入れ』の鶴の一声で急変し、『和幸流通サービス』という自分の名前の入った会社に勤めることになりました。
落ち込んだこと
- 人に裏切られたこと。
- 社員の為に喜ばれると思って行動していたことが全く喜ばれていなかったこと。
- 親と比べられること。
- ボンボンと言われたこと。父親が凄くてお金持ちだっただけで、僕は何もないと思っていたので、反骨心からそう呼ばれることに嫌気がさしていた。
どう乗り越えたか
- お互い違う世界で頑張ろうと気持ちを置き換えた。
- 自分がいいと思えば他人もいいと思うはずという考えを変えた。
- 比べるのではなく、意思を引き継ぎ、新しく変える考えを持った。
- ボンボンで何が悪いと思うようにした。逆にラッキーだと思うように気持ちを切り替えた。
今後のビジョン
経営方針の『5方よし』を基に、会社、得意先、社員、協力会社、地域社会がともに発展していける会社を目指すこと。
本社の前の通りを通称『和幸通り』と呼ばれるようになりたい。その為に通り沿いに弊社拠点を多数持つこと。そして地域貢献をすることにより、『草加市柿木町に和幸あり』と言われる会社になること。
運送会社社長にとらわれず、起業家、投資家という立場も切り開き、『忘己利他』の精神を忘れずに発展させること。
座右の銘である『人を怒らず 人を憎まず 人を受け入れ 人を愛し 人に尽くせば 人は報われる』を胸に刻み、貫き通すこと。
会員:本多 裕樹
なんちゃって帰国子女な2代目
どんな学生だったか?
中高一貫・全寮制の学校で、6年間寮生活をしていました。
親の熱のこもった教育が嫌で、全寮制の学校に行きました。
帰国子女ではありますが、苦手科目は英語です。
規律の厳しい寮生活を選んだことは、最初こそ後悔はしましたが、住めば都でした。
(テレビ・マンガ禁止の環境ではありましたが、こっそりマンガを持ち込んでは没収されていたのも良い思い出です)
中学3年生から始めた硬式テニスにハマり、休みの日は寮内のテニスコートの取り合いに参加するほど熱中し、高校ではテニス部副部長を担わせて頂きました。
サラリーマン時代
大学生の頃、歯科材料を扱っている会社でアルバイトをし、卒業後そのまま就職しました。
こちらの会社では歯科業界と技工サイド、大人の遊びを学ぶことができました。
東京での勤務でしたが、2年目を過ぎたころ当時の社長から福岡の状況改善の命を受け、転勤も経験もしました。
入社のきっかけ
2004年に母親が離婚を期に歯科業界向けの起業をしていたので、研鑽を積む為に歯科業界の企業へ就職するという背景がありました。
2008年にはメディカルアドバンスは内覧会事業を確立させて順調に業績を伸ばしていったのですが、2014年に当時の専務兼管理部長が会社を辞めた事で社内統制がとれなくなりつつあった状況だったようです。
そこで、代表である母親と会社の顧問を務めるコンサルタントから「すぐに会社に来て手伝ってほしい」と私に相談があり、急遽メディカルアドバンスへ入社しました。
落ち込んだこと
私と代表とのやり取りにおいて、口論になりやすく、それを聞いている社員のフラストレーションになっているという話を聞いたときです。
どう乗り越えたか
身内だからこそ、つい言い返したくなるところをぐっと堪えるしか今のところ見いだせていません。
今後のビジョン
当社はお取引先様から「内覧会事業の会社」という事でご認識なので、今後は「医院の経営サポート事業の会社」という認識に変えていけるようにしていきます。
具体的には内覧会で「開業のサポート」をするだけではなく、事務長業務の代行・院内ミーティングのファシリテート・歯科衛生士の副業と転職サービス・マウスピース矯正装置の企画販売など「開業後の経営についてのサポート」にも現在取り組んでいます。
会員:小林 寛正
「街完結。」を目指す地域ド密着企業3代目(飲食✖️不動産)
どんな学生だったか?
小学生の頃の父の自殺から祖父、祖母の病死とわずか3年の間に身近な人がいなくなり自己肯定感を育めずに過ごす。中学、高校と野球に夢中になり、チームで何かをするのが生き甲斐となっていく。大学生時代は、法曹を目指すも目的を見失い全く学校に行かなくなり、アルバイトで始めた居酒屋業に没頭。なんとか単位を取得しギリギリ卒業。
卒業後はすぐに起業(社会人未経験)
過去の自分の様に独りの人が寂しくないようにと「寂しい夜をなくし、明るい夜をつくりたい!」と思い一念発起で居酒屋を創業。同時に家業である不動産賃貸業を3代目として承継すべく、創業時に掲げた目標に向かって6年かけて達成し、その実績を親が認めてくれたおかげで2016年に承継を果たす。
当時の葛藤
敷かれたレールの上を走っていると言われるのが嫌で、創業したにも関わらず、周りからは「会社を潰す」「親の七光り」だと散々言われる。恩返ししていきたいという原動力でやっていたのに、親からは商売のことではああしろ、こうしろと、自分の商売観で指示してくるので、それが嫌でたまりませんでした。
どう乗り越えたか
今の自分から、昔の自分に言えることは、親への感謝が足らなかったことと感謝を伝える技術がなかったことなので成長で証明するしかない。親が苦手な組織づくりにチャレンジし、言葉でカタチにすることで認めてもらえたからこそ今がある。
今後のビジョン
先代が果たせなかった夢を叶えるのが使命であると認識しているので事業として後世に遺していくことと、そこに私なりの世代を超えたチャレンジで街完結型の商品・サービスをつくり、豊かで持続可能な街をつくる。街完結とは、梅林の商品サービスで豊かな生活が完結できることで、例えば1軒目に焼肉を食べたら2軒目に居酒屋さんでお酒を楽しみ、3軒目にカラオケやスナックで遊べて、最後にラーメンで締めると言う1連の流れをワンストップで叶えられるような状態。そこをモデルとして他の街づくりしたい人、東洋の国々へ商品サービスを展開していける企業へ。
会員:高橋 秀仁
「後継会社の繁栄と一族の幸せを両立」実際の2代目が行う後継社長の軍師
どんな学生だったか?
勉強もスポーツも全然ダメの取り柄のない人。中学高校と親元を離れて男子寮生活をしており、いい思い出はひとつもない、真っ黒な青春時代。兄が同じ学校で優秀だったので、比較され、すねた学生だった。一浪後、大学生になり、「いれではいかん」と思い直し、自分らしく楽しい大学生活を京都で送る。特に、学園祭の実行委員を4年やり、芸能人を呼んでライブをしたり、自主企画で学園祭を盛り上げたりと、「お祭り男」だった。
サラリーマン時代
会社を継ぐ気持ちは全くなく、親に相談もなく、就職する。新卒で入った会社が「高級寝具販売」のブラック企業で、毎日14時間働かされる。一番キツかったのは、仕事が終わっても、会社が用意する寮に全員で帰宅し、仕事後も上司のお世話するなど、プライベートゼロの環境が耐えられず1年で退社。その後、父の紹介で飲食店に3年半勤務する。飲食店の経験はゼロだったが、店長候補として、鍛えられた。いきなり部下を40人ほどもち、人材活用と組織運用を身につけた。いい思い出として、店舗がナゴヤドームにあったので、中日の有名選手とよくあったこと、特に星野監督には、声もかけてもらい、カッコよかった。その期間に結婚し、子供も授かるなど、忙しいわりに給料も安く貧しかったが、幸せな生活だった。
入社のきっかけ
上記の飲食店に勤務しているときに、第2子(長女)が生まれるときに、妻から「毎日12時に旦那が帰っている生活では子供二人は育てられない。離婚か転職か」と迫られ、当然、転職を選ぶ。他社も探したが、当時に父親の初めて飲食店が赤字のため、それを改善するために家業へ入社する。単純に家から近いから、子供の面倒も見れるかなという軽い気持ちだった。
落ち込んだこと
赤字の飲食店が、何をやっても好転せず、責任だけを社長(父親)からも、社員からも追求され、相談相手もなく、逃げ場がなかったこと。そして、数ヶ月後、「あの、アホボン早く辞めてくれたらいいのに」と陰口をきいたとき(実際聞いたので陰口でもない(^_^))
さらに、成果を急ぐために、いろいろ無理をし、父親にも文句ばかり言って喧嘩となり、1年ほど口をきかなかった。そうなると、ますます「アホボン」扱いとなって、会社での立場はなく、怖くて出社できない日々もあった。
どう乗り越えたか
何か改善しようと自分なりに提案するが、ことごとく現場から反対され、「経験がない」と拒絶された。そこで、経験では勝てないので、知識で勝とうと思い、経営に必要な知識を学ぶ上で、中小企業診断士を取得した。
そして、経営をちゃんと学ぶと自分の提案が確かに良くないことと分かった。正確に言えば、私の提案は以前の大きい店舗には使えても、自社の小さい店舗では使えないことが分かる。そこで、経営知識の重要性を知る。
さらに、知識だけは組織は動がない、心理学や脳科学を学び、人間関係で中小企業を動かすことを実践で身につけた。それらを、一つの理論として事業【勝】継と名付けて、全国の悩んでいる後継者・後継社長にその人がやりたい経営を実現することをコンサルティングサービスとして提供した。
最終的に店舗は社長就任後に全て撤退したが、コンサルティングサービス会社として、事業を変えて、経営支援とその後の事務や労務のオフィス事務支援の会社として、生き残っている。
今後のビジョン
2代目3代目社長が自分らしい理想の経営を実現することが、会社も社員も末永く繁栄し、幸せになることだと考えている。そんな中小企業が増えると、地域は活性化し、後継社長へのイメージも高まるに違いない。そのための、後継社長へのコンサルティングと、そのノウハウを士業の皆さんに活用頂き、地域の後継社長を支えて頂くことと、士業の先生も新しい武器を持つことで、新しいステージでお仕事いただけている。私は会社を引き継いだことも感謝しており、中小企業診断士の資格を得て人生が変わったので、士業にも恩返したいと思い、活動していく。
おまけ
趣味 美味しいお酒と料理、旅行(ハワイか温泉)、サッカー、アニメ、猫、
特技 タロットカード、サッカーコーチ
特性 誘われると、どこでも参加します
性格 楽観的であるが、以外と意地っ張り。
会員:松島 大輔
「七転八倒! つかめ栄光!!」2代目社長!!!
どんな学生だったか?
見えない野心だけは持っていて、好奇心旺盛で色々なことに挑戦したい、何かをしたくて仕方がなかった学生時代。大学2年生の時、休学をして身ひとつでオーストラリアー、シドニーに渡る。そこで出会った教師の影響を受けて大学教師を目指す。
大学院(修士課程前期)まで終えたところで、教授に「世間を知らない教育者にロクな奴はいない。一度社会を勉強してきなさい」と言われ、就職することに。
サラリーマン時代
父を超える、父とは別の形で、自分なりの成功を掴みたいという思いが強く、興味のあったWEB業界、マーケティング部へ入社。WEBベンチャー企業、国内ECサイト企業、外資系化粧品メーカーという変遷を経て、マーケターとして経験を積む。同時に時代の流れとともに個人として力を試してみたいと思うようになり、起業を意識しはじめる。
入社のきっかけ
自身の年齢が30代後半になり、父の労働寿命も短くなるなかで、親孝行も含めて承継するかどうかの決断するラストチャンスとして、最終的に入社することを決意。
落ち込んだこと
落ち込んだという感覚はないが、外から見ている会社の見え方と、実際の中身や実情がまったく異なっていた。アマゾンの熱帯雨林のごとく、散らかっている業務に愕然。整理整頓に追われる毎日。
どう乗り越えたか
ただひたすらやるしかない、スピード感を持ってこなしていくこと、変わっていく様を感じつつ、成長のひとつの形として理解、実感し、楽しんでいる。
今後のビジョン
ベンチャー精神、ベンチャー気質を忘れず、スピード感、改善マインド、データ分析とテクノロジー活用による仕組み化、そして何よりお客様に寄り添った価値提供。「思いやり」の再構築、時代にあった「思いやり」を実現したいと考えています。
会員:高橋 祐一
「関わる全てのひとを心豊かにする」3代目社長
どんな学生だったか?
小中高と地元の学校に通っていたが、大学の時に親元を離れたいの一心で、北海道の大学に進学。
大学時代は、同級生とハードロック、ヘビーメタルのコピーバンドを結成。
勉強は、ほとんどせずに、バンド活動とバイトの日々を過ごす
大学3年の時、2年間休学。1年間はバイトをし、お金を貯め、次の1年でカナダへワーキングホリデーに行く。
ワーキングホリデー期間を終え帰国後に大学に復学し、無事卒業
サラリーマン時代
大学卒業後、地元に帰り、海外に行くチャンスも多いのではないかという理由で、IT系の派遣会社に就職。
大手メーカーに派遣され、ネットワークSEとして働く。
入社して数年後、海外出張にも行くことが出来た。
入社のきっかけ
結婚を機に、妻の父から一緒に働かないか?とお誘いを頂き、妻の父が経営している企業に入社。
その時は、社長になるなんて夢にも思っていませんでした。
落ち込んだこと
前社長のカリスマ性が凄すぎて、自分なんかに会社の経営が出来るのか?と凄さを感じる度に落ち込んでいた。
どう乗り越えたか
まだまだ、乗り越えてはいないが、前社長にではなく、自分がなれる最高の自分になることを目指すようにしています。
今後のビジョン
わが社があって、良かった!と思ってもらえる会社にする。
社員さんにとって、お客様にとって、地域にとって、必要とされる企業に。
働きたくても働けない人が心豊かに働ける。
地域のお母さんが笑顔になり、子供が笑顔になる。
そんな笑顔のきっかけになる企業を目指しています。
会員:宮澤 慧丈
「変化し、成長し続けるという想いを大切にする」
どんな学生だったか?
目立ちすぎず、やっかみをうけない、中の上の人生を送る事に全力を注ぐ学生。
家業を継ぐという事を全く考えておらず、無難な人生を歩むため、また、昔から医療にも興味があった為に薬剤師となる為に理系の高校→薬科大学と進学をし、医薬品の製造管理の職種につく。
サラリーマン時代
品質保証部や生産技術課として業務委託先の管理や監査業務、工場の工程管理を任される(ISO/GMP/FSSC)。監査の仕事(する側もされる側も)は白黒がはっきりしており、論理的で合理的であれば年齢や役職も関係が無く、分析方法の改善等、個人のひらめきが会社全体の効率化につながるため、天職に感じる。
入社のきっかけ
製造管理者に27歳でなり、法律で定められた責任/権限と実際のそれとの違いを感じる。法対応上の危険性や代替案等について話をするが、当時変わったばかりの工場長に度々放置される。親会社の意向で本社を東京から静岡に移管させることを強行採決。そのバタバタで社員がどんどん辞めていくのを目の当たりにし、自分が継がなかった時の父親の会社の将来、父の気持ちが気になる。もしこのまま継ぐ人が居ないと父のしてきたことが否定されたようになるのではないか・・・『父の会社』を支えたいという思いが勝ち、『中の上』を狙う人生から外れる選択をする。
落ち込んだこと
全ての人に対してより一層距離を感じてしまうこと(気の持ちようかもしれませんが)。
どう乗り越えたか
乗り越えたわけではないですが、人同士距離がある中で、どの様に一緒の方向を向いていくか、という事を考えるようになってきました。
今後のビジョン
庚伸という社名に込められた意味(変化しながら伸びる)をこれからも大切にし、特定の手法、販売方法等の枠にとらわれずに、これからも常に変化をしていきたいと考えている。今後の労働人口の減少を見据え、社内外でのIT化とラストワンマイルを両方大切にし、特定の商材にとらわれずにその時々に最適な提案を行ない、顧客に寄り添える様な会社にしたい。
おまけ
ソシャゲとSNSが苦手 国内旅行、温泉好き
会員:重親 靖孝
「経営者としての思考が少しズレてるのが持ち味」2代目鉄工所社長
どんな学生だったか?
小さいころからの憧れ、バイクに乗りたいという目的だけで、工業高等専門学校に入学、(当時は、暴走族等の問題で全日制の高校で免許を取得しても良い学校が無かった。)5年間寮生活をする。(バイクライフを大いに満喫した。)
寮で同室だった仲間の影響と、まだ働きたくないという気持ち(こっちの方が大きい)から、バブル全盛時の就職先選び放題を蹴って、工業系大学3年に編入学。
大学院修士課程を修了する。
サラリーマン時代
高専卒業時はバブル絶頂期で就職先は選び放題(正にこの言葉が一番マッチするぐらいどこでもOKな状態)だったが、大学入学後見事にバブル崩壊。反動の就職難の中、中小企業のOA器機開発メーカーに就職。大手メーカーのOEM製品の開発、設計部門で働く。
開発、設計とはいうものの、100人規模の中小企業のため、顧客との打合せから、開発、設計、図面作成、部品発注、試作組立、稼働テスト、耐久テスト…ほとんどの作業を行っていた。また、当時の中小設計会社は、今でいうブラック企業に近い。社員の多くが深夜0時まで働いた。入社当初からその状況だったので、それが当たり前だと思って仕事をしていた。
入社のきっかけ
サラリーマンになって、6年目に入り30歳を前に“このままここで働いていて良いのか?…”と思い、転職を考え始める。そんなタイミングで、父から新しい事業を立ち上げるので帰ってきてやらないか?という誘いを受ける。開発、設計という仕事は好きだったので、鉄工所を事業承継する気は無かったが、新しいことにチャレンジしてみたい気持ちと、現状から逃げ出したい気持ち(こっちが強い)から、現在の会社に入社する。
落ち込んだこと
自信満々で会社に入ったが、事前準備も不十分で持つべき知識も不足していて、自分が無知で何もできない雑魚であることを、新事業の失敗で思い知らされたこと。
どう乗り越えたか
勉強するのは好きだったので、無知を自覚してからはひたすら“有知”を目指した。いろいろな事がわかってくると、楽しさも増えてきて、気が付いたら事業失敗で払った勉強代は十分に回収できたと思えていた。
今後のビジョン
事業を継承してすぐは、会社を大きくすることが社長の一番のミッションだと考えてやっていたが、父が引退し一人になったとき、会社を大きくすることだけが答えではないと感じ、規模は小さくても最強の会社、大きな世の中の波にも、呑込まれ沈んでしまうことなく、浮き続ける木の葉の様な会社をつくりたい。
今、日本では終身雇用は過去の物の様に言われるが、むしろ自社は終身どころか、定年後の死ぬまで面倒をみれるぐらいの会社にしてみたい。自社に在籍することで最低限の一生が約束される様な会社を創りたい。
おまけ
政治的思想はかなり強いと思うが、絶対に政治家にはなれない。
なぜなら、ハニトラ、マネトラに間違いなくやられる自身がある(笑)
会員:吉岡 史光
『いつまでも反抗期』真ん中っ子次期社長!?
吉岡史光(よしおかしこう)
埼玉県さいたま市出身
どんな学生だったか?
1993年頃サッカーを始めJリーグ開幕のオープニングをテレビでみてサッカー選手に夢膨らませる、中学生まではサッカーに諸突猛進。
中学では友人も遊び方も変わりそれなりに悪ガキの経験をし始めたあげく、親に友達を選べ通告!反抗期に火が付いた時期。
高校はサッカーで強い高校に行くものか悩んだが勉強が得意なわけがなく高校生ライフを楽しむに惹かれてブレザーのカッコイイ高校へ入学、ろくに勉強もせず、英語の追試にて2年にて進学できず・・年下の学年と同じになる事がプライド的に嫌で通信制高校へ転校。
通信制高校卒業後は?親は大学希望、自分は勉強嫌い。
バイクや車に興味を持っていたので自動車整備専門学校へ進学
サラリーマン時代
整備士資格取得後BMWディーラーに7年勤務、その間、整備士とフロントアドバイザーとして働きました。
家業が中古車販売店ということもありこの時には、いつまでもサラリーマンはないかなと考えていたかもしれません。
その後ディーラー退社し家業に入るも営業経験がなかったということもあり
保険会社の研修制度へ出向命令
東京海上日動火災保険の準社員で営業の苦しさを学び3年後個人事業主として代理店独立。
入社のきっかけ
個人事業主として3年間保険代理店をしながら家業を手伝う?
保険業界が個人代理店を認めない基準が厳しくなり、今後の家業との事も考え合併し社員へ。
入社して感じたギャップ
企業と家業では仕組み・組織構造が大きく違うことを実感しました。
サラリーマン時代ではある程度やると自分の手から離れて人に任すことが出来ましたが
家業では自分でやり自分で終わる。簡素化や仕組みが出来ていないので同じことをやるにしても時間が多くかかったりと課題が多く残る。
父親との関係
会社といっても社長・社員ではなく父親と子の関係が続く
そもそも相性が合わなかったり、反面教師ととらえやる事、言うことを逆に捉える日々でした。お互い伝える事が苦手なのに伝えると衝突し話が進まないなんて事もしょっちゅう。
ただ自分も歳とるにつれ、事業主をして尊敬する場面もある事を実感し始めました。
落ち込んだこと
何しろ父親とは賛同されたことの記憶がなく会話も最小限なことも問題ですが
何かやりたいと思うことがあっても自分で決定権を持っていないことによる葛藤がありました。
どう乗り換えたか
今自分でできる範囲で行動して感じてみる、後回ししないでやってみようの活力を持つように気持ちをあげ、自分自身でも法人登記をして起業をする。
今後のビジョン
現状維持は後退の始まりといいますが
自分は現状維持をする事も素晴らしいとも思っています。
ただ維持する為にもやる事方法は変えることもあるかと思います。
自分に足りないのは情報量。人脈を作り勉強する事と思います。
事業としての組織づくりをしてみたい!
会員:本間 理久
「全力貢献が行動指針 兄弟4人でスタート」した保険プロ代理店の長男社長
どんな学生だったか?
高校生まではほとんど勉強をしないでサッカーばかりやっている学生でした。冬は半袖短パンにベンチコート、すぐにサッカーが出来る格好で小学校へ通ってました(笑)
5人兄弟(全員男)と従兄弟3人兄弟(全員男)、いつも実家で叔父叔母に怒られながら楽しく遊んでいた事を思い出します。
父は10人兄弟の長男、祖父母も一緒に住み、叔父叔母もいて、最大15人で住んでました。
母は相当大変だったと思います。
工業高校にしか行けない成績でしたが、高校2年生の時いきなり勉強にハマり、成績で学年一位になって学校推薦で東京電機大学へ入学しました。
20歳の時、父との大喧嘩で家出、大学も中退してアルバイト生活が始まります。
社会人生活
当初時給の良かったパチンコに友人が勤めていた為、パチンコ店のアルバイトを始めます。
生活に余裕は出るものの、このままいくとまずいと思っていた所、パチンコ店の先輩が就職活動300社目にしてようやく入社できたIT企業へ。私も先輩に誘ってもらいIT業界に入ります。今でも恩人であるこの先輩と仲良くさせてもらい、お付き合いさせて頂いてます。
最初に入った会社の紹介で転職しますが、いわゆるブラック企業。タイムカードもない過酷な労働環境で3年近く勤めます。いきなり発狂したり、行方不明になる先輩もよくいました(笑)
入社のきっかけ
この頃に父と仲直りし、父の業界である保険業界へ転職します。
父から言われた一言が「億の仕事をしてる人もいるぜ」でした。すごく夢のある業界だなぁと思いましたが、入ってみて「億?それは設定の保険金額の話かい?」と思えるほど厳しい環境でした。
落ち込んだこと
研修を卒業後、父と会社を創りましたが、半年で父が事情によりリタイヤ。一人個人事業主になり、なんとかやりくりしました。他社への合併によって他の代理店と合流。7年勤め、令和元年に再度独立。
独立をしたものの、前職との折り合いがうまくいかず保険募集(営業)が出来ないと日々が1年近く続きました。保険募集人の免許が無いため借入も出来ず、お金の工面が大変でした。
どう乗り越えたか
弊社もお世話になっている税理士先生の同級生で、コンプライアンスに強い弁護士先生を紹介してくださいました。
2人で試行錯誤し、なんとか保険募集人の免許を返してもらいました。
今後のビジョン
一人でやっている頃から、試行錯誤によってなんとか精神面でも金銭面でも豊かになり、幸せを感じる事が出来ました。そこには多くの方のご支援や指導があって道が開けたと思います。特に一緒に起業してくれた父親には感謝し、父親の気持ちを胸に、今の会社を大きくしていきます。今度は自分が人の道を開いていきたいです。
社員はもちろん、携わってくださる縁ある人達の豊かさと幸せに貢献できる会社にしたいと思ってます。
私のように今まで環境に恵まれず、努力と挑戦によって道を開いていきたい方の支援を出来るような環境を創ります。そして、世の中を少しでも明るく出来るような会社にしたいと思います!
会員:岩出 優
「一族の歴史を途絶えさせるのが嫌だった」6代目で第2創業
どんな学生だったか?
小学校は文武両道の栄光期間。人生最大のモテ期を小学2年で迎え、下り坂に。
中学ではコミュニケーションが苦手すぎて人に馴染めなかった。
陸上部に入るも同期で唯一賞がもらえず劣等感に浸る。
高校では部活にすら入らず、競馬に没頭する日々。厩務員を目指すようになる。
友人にカラオケに連れていかれ、歌は下手だと自覚していたが予想通りトラウマになる。
厩務員を目指し、大学で馬術部に入るも1年で挫折。あっさり夢をあきらめる。
大学2年、カラオケが嫌すぎて歌の練習を始める。4日で33時間カラオケに行く。
アカペラが流行し、ボイスパーカッションを始める。練習のし過ぎでアゴが外れる。
歌とボイスパーカッションを徹底的に練習し、個性になる。挑戦する楽しさを知る。
サラリーマン時代
プログラマーとして就職するも、仕事が合わず2年弱で退職。
無職として半年間、必死に勉強した結果、社会保険労務士試験に合格。
大手印刷会社の健保組合に就職。7年間社会保険の業務に従事する。
勉強にドハマりし、計5年間の勉強と、彼女に2度フラれた末、中小企業診断士試験に合格。
会計事務所内の社会保険労務士法人に転職。9ヵ月で先輩社員が全員辞め、所長に就任。
本を年間300冊ペースで読みつつ、フルマラソンへの挑戦を始める。
5回目の挑戦で3時間切りを達成(2時間59分)。嬉しさで知らないおっさんに抱きつく。
経営者の経営革新のニーズに応えられている相談役が少ないことを理解する。
独立後は組織づくりのニーズに応える存在として活動すると決意。
サラリーマン時入社のきっかけ
親が5代目として1877年創業の文具卸売業を営んでいた。
最盛期100人以上いた社員も、いつの間にか親1人の状態に。
継ぐメリットもそこまでなく、親の代で会社を閉じるか、という話も出たが、
一族が140年以上かけて繋いできた歴史を途絶えさせるのが嫌だったこと、
自分が再度盛り立てていけば、みんなが良くなると考えたことから、承継することにした。
(「親がどこかで後悔するのではと思った」という、ほぼ100%感情論の承継だった。)
会社の歴史のみを継ぎ、業態は組織コンサルティング業へと変更した。
落ち込んだこと
実質、第2創業の状態であり、時間とお金を勉強にひたすら投資し、1人で0からビジネスを作ってきたこと。期待して絶望しを繰り返し(私はこれを”パワーボム”と呼んでいる)、何度もめげそうになった。
どう乗り越えたか
辛いときはカラオケで中島みゆきを歌い、泣きながら河川敷を走った。何が起きても「面白い」とつぶやくことで本当に何とかなったりした。最後は「自分は運がいい。」「一族が見守ってくれている。」と信じつつ、一日一歩ずつでも前に進むことを心がけている。
今後のビジョン
「未来に挑む人と組織の伴走役」として、みんなが挑戦を楽しめる社会づくりに貢献したい。
そのためにも、自らも様々なチャレンジをし、挑戦する楽しさ・意義を体現していきたい。
【目標】
仕事の面では、「採用定着を仕組みとココロで支援する」のコンセプト、企業経営カウンセラー®としてのセルフイメージのもと、経営に心理学を取り入れる価値を伝え、企業の人材確保のお悩み解消に貢献する。
ランニングの面では、Mt.FUJI100(富士山まわり160kmのトレイルランニング)の完走、フルマラソン2時間30分切りにチャレンジする。
音楽の面では、ピアノを始め、人が「観に行きたい!」と思うような還暦ライブを開催する。
(「まぁ行ってやるか。」のレベルでは開催しない。)
様々な挑戦をしながら、明るく楽しく面白く、記憶にも記録にも残る人生を作って行きたい。
会員:村田 和士
「盛岡市民が求めるものなら何でもやる」
どんな学生だったか?
基本はアホ。部活のバスケが終わったらそのまま飲みに行き、生きがいは酒と女のギャンブル。そんな高校3年の時に、叔母のススメでUSへ交換留学に参加。1年たって「いけるやん!」と勘違いし、フィラデルフィアにあるTemple Universityへ進学。死ぬ気で勉強し、卒業。二度と経験したくないぐらい大量の学びの詰め込みをしました。
サラリーマン時代
アポロ21世紀㈱という出光興産の子会社に就職。スタンドと本社勤務をする中で、世田谷勤務になった際に今の妻の美紀子を大学の友人に紹介してもらう。
入社の切っ掛け
USに居た頃、親の後を次ぐことを決意。5年の中で販売主任→専務→社長を経験。社長になったのは2013年。そこから数年でそれと共に父が認知症になり、今に至る。
現在はガソスタの他に、就労支援、クラフトビール店、不動産管理などの会社も設立した。2024年にはM&Aの会社に所属している。
落ち込んだこと
過去に一回。JCの委員長をやったときに鬱寸前まで痛めつけられたが、友人たちに救い出された。彼らは今でも最高の友人で、13年たった今でも友人です。
今後のビジョン
M&Aの能力をつけるのでこの会を有意義に使わせていただきます。
2024年はロータリークラブの会長。翌年の2025年にはBNIを岩手に立ち上げしてエグゼクティブデレクター(フランチャイズのオーナー)になります。
今51歳。まだ49年人生があります。ガソリンだけではお先真っ暗なのでまだまだ色々仕事を初めて行きますよ!
会員:西ヶ谷 泰弘
「MS(ミニストップ)西ヶ谷グループ」2代目コンビニ経営
どんな学生だったか?
小学校の頃から、毎年運動会のリレーの選手に選ばれるくらい走るのが得意で、中学で陸上部に所属します。しかし、ボールを使ったスポーツは全然だめで野球もサッカーも下手くそです。
高校生になると、部活も勉強もせずに洋服や靴を買うためにアルバイトばかりしていました。
高校生3年生のときに、父が脱サラしコンビニ経営を始めます。
入社のきっかけ
父に「人手が足りないから、うちでアルバイトしないか?」ということで父のコンビニでのバイトが始まります。その時は、継ぐ気持ちもまったく無くただバイトのつもりでした。
しかし、気が付けばバイトリーダー、そして店長となっていました!
落ち込んだこと
フランチャイズ本部との関係が、あまりうまく行ってない時期(当時の部長と父が合わなかった)があり、店舗を増やしていきたいのに紹介をもらえず、このまま店舗数を増やせないのではないかと悩みました。
どう乗り越えたか
僕は良好な関係だったので、「父のせいで」などと思うこともありましたが、人事異動で部長が代わってからは紹介をいただけるようになりました。
今後のビジョン
父はもう引退しましたが、共に目指していた10店舗経営をしたいです。店舗数が増えてきて、最近やっと組織づくりや仕組みづくりを考えるようになりました。
今まで通り、個店は「地域に必要とされる店舗」を作りながら、現在の個人経営から会社組織にします。
会員:前田 雄大
「メディアの力で事業承継問題を解決したい」
どんな学生だったか?
基本、目立つタイプでは無い、穏やかで平和な学生。大学では森林科学を専攻、登山にハマり、4年間で400日を山で過ごすことに。平日は、飲み会と麻雀、休日は全て山登り。基本ただやりたいことをやるだけの22年間。登山という生涯の趣味を得たこと、極限の環境下で共に過ごした仲間との思い出は今でも貴重なものです。しかしながら、最近になって経営者としての人生を考えると、この22年間でもっと他にすることがあったかも、という思いがよぎる今日この頃。
サラリーマン時代
なんとなく営業職を志し、大手ハウスメーカーにて賃貸マンションの建築営業に従事。日々地主への飛び込みを繰り返す。2年後人材交流の出向で、全く系列外の銀行系不動産会社へ。銀行員の仕事ぶりを日々見る中でハウスメーカーとの違いに驚き、生涯の仕事について考え始める。
入社のきっかけ
20代中頃に広告代理店を経営する父親と生まれて初めて家業について話をした。「仕事を継ぐという選択肢はあるのか?」と尋ねてみると、「すごく嬉しい」との反応に驚く。それまで仕事について話をした事はなかったが、扱っているCMが流れると皆でテレビに向かって手を合わせる様な家庭だったので愛着はあり、キャリアを積んで継ぐことを考え始める。そんな最中、出向が延長になるタイミングで退職し、とりあえず世界の山に1年ぐらい登ってから転職しようと舐めた事を考えていると、その2週間後にまさかの大怪我。治療で1年を棒に振る。出鼻をくじかれ発奮しきれず、父に頼んでいきなり入社をする事に。
落ち込んだこと
会社を継いで、経営者に必要な様々な能力を肌で感じ、自身に足りないものが明確になった事。(結構最近です)
どう乗り越えたか
まだ全然乗り越えてない為、乗り越える為に後継者が会社を成長させることを目的としたメディアを立ち上げた。「承継」の事例や課題の解決策について日々取材しコンテンツ化する事で、悩みを同じくする当事者に情報を届け社会課題の解決しながら、自身の糧になればと力を注いでいる。
今後のビジョン
40年続く会社という土壌がある事は本当にありがたく感じるのと同時に、オフライン中心の広告代理店という業態においては商社的な従来のやり方では限界が近いのではと感じている。歴史ある会社の強みを活かしつつも、自分らしい「社会課題の解決に繋がる」事業をつくり、社会に、社員に、家族に貢献する事で、結果として自分自身の心豊かな人生を築きたい。
会員:西川 洋右
「愚痴を家庭に持ち帰らせない」
どんな学生だったか?
40日も早く生まれた未熟児で病気がちだったこともあってか過保護な環境に育つ。幼稚園から高校まで、ずっと地元の公立校。三重県立名張西高校普通科卒。大学も実家から近い天理大学に。努力をせずにぬくぬくと実家で暮らす。
何かを変えたくて、カナダ語学留学に1ヶ月間参加。行動する事で自分の人生を変えられることに気づき、再度カナダに長期留学(1年)、その後ケニアでNPO職員として勤務する(4年)など行動的になる。
サラリーマン時代
ケニアから帰国し結婚。
2006年 オフィス設計専門の内装設計事務所、株式会社midasにてプロジェクトマネージャーとして勤務。顧客の予算、スケジュール、建築品質の監理業務を行う。
入社のきっかけ
前職でなかなか成長できない自分に悩んだ際に、居酒屋で呑みながら、義父から誘ってもらい入社した。
落ち込んだこと
カナダ、ケニア、設計事務所、居酒屋社長、と目の前の面白そうなコトを選択して人生を歩んできた自分にとって、職人中心の職場は非効率な事が多く、苦しかった。
職人さん達や義父と衝突する毎日。
バカだ、婿だと、陰口を言われながらも、数年後には本店の店長を任され売上を伸ばす。やり返したい気持ちから結果が出たので、職人さん達との距離は遠くなるばかり。ある日、料理長と大衝突し、義父に別店舗への異動を命じられる。
どう乗り越えたか
憎くてしかたなかった料理長と、自分を追い出した義父のことが許せない時期が続いたが、別店舗でも職人さんとの衝突があり、徐々に内省するようになる。ある日、お墓まいりをした時にスッと気持ちが楽になくなる。そのことから、お墓まいりを大切にしている。
その後、徐々に本店の業績が落ち、義父から全店舗の統括マネージャーに任命される。すると、本店に在籍した社員が全員同時に退職。
残ってくれたアルバイトさん、別店舗の社員、取引会社、家族、の協力があり、その時期を乗り切る。
忍耐強く生意気な私の愚痴を聞き続けてくれた義父、義父に対する愚痴を聞かせてしまったがいつも励ましてくれた妻。義父と妻の忍耐力と愛情のおかげでなんとか今の自分がある。
今後のビジョン
義祖父が残してくれた「お客さんが愚痴を家庭に持ち帰らない」という言葉を中心に企業理念を作成中。
居酒屋「玉河」を100年続けるのが目標。
おまけ
里親をしています。人の居場所を創りたい。子ども食堂、里親支援に興味があります。テニスが趣味です。