メンバー

当協会主要メンバーのプロフィールです。

代表理事:田澤 孝雄

『世間知らず戦略』次男坊社長

(世界のイチローと一緒!!)

どんな学生だったか?

早稲田実業高校から早稲田大学政治経済学部に進学。父親に逆らえず、
大学1年で宅建を取得する。不動産業を営む父親へ反発心で、不動産とは
真逆の弁理士取得を決意する。バスケットサークルで学生生活を謳歌しな
がら、受験勉強に勤しむ。弁理士の実務や業界を知らずに決意するところ
に、世間知らず振りを発揮している。

サラリーマン時代

将来の弁理士の卵として、アルプス電気にお世話になる。ここでも世間知ら
ず振りを発揮して、弁理士取得の環境を整えてもらい、25歳で合格を果た
す。面白い奴として、知財以外に、財務、価値評価、VC投資など幅広く業務
を経験させてもらう。順風満帆なサラリーマン時代を過ごす。

入社のきっかけ

自分にも子供を持つことができ、父親としてのキャリアを積み始めた時、自
分の父親のことは何も知らなくて良いのかと、深いループにはまる。そんな
タイミングで兄が家業を継ぐ意思がないと知る。自問自答の末、弁理士の
キャリアを生かせればという、勝手な妄想をして、入社を決める。妻に相談
せずに独断で決めて、会社に辞表を出し、身重のなか引っ越しを決行してし
まう。

父親との関係

まさに天皇。言い返すことは不可能。苦労と力量の差も圧倒的。仮に、喧嘩
をしたら、自分も頑固なので行くところまでいってしまう。経営する会社を分
けることで、衝突リスクを完全に排除している。ビジネスマンとして、心から
尊敬している。

入社して感じたギャップ

現場にPCとEメールがないことに驚愕した。サラリーマン時代は、涼しいビ
ルのなかで法律論を振りかざしていたが、配属されたガソリンスタンドの現
場では、ガタガタ言わずに1円でも稼ぐことが求められた。日銭を稼がない
と、会社が持たないという感覚を始めて知った。

落ち込んだこと

グループに招いた京南オートサービス株式会社の社長に37歳で就任。世
間知らずで突っ込んでいったため、右も左も分からず、途方に暮れる。毎月
数百万のキャッシュ不足を繰り返し、飯も喉を通らなくなる。月末が近づく
と、資金繰りで頭がいっぱいになり、夜も寝つけず、社長業の厳しさを痛感。

どう乗り越えたのか

どん底を経験し、父親の依存心が心の奥にあることをやっと自覚でき、「甘
さ」を認めることができた。借金が数億に膨れ上がり、人生潰れるくらい追い
詰められ、「失うものは何もない。やってやろう!」と覚悟を持つことができ
た。自分を変えようと決意し、食わず嫌いだった「ビジョン言語化」作業をし
たら、翌年からあっさり黒字化した。

今後のビジョン

メンテナンスをキーワードに、クルマと健康分野で、大きく事業を伸ばしてい
きたい。日本には、メンテナンス文化を根差すことが必要。使い捨て世の中
を変えていきたい。株式上場をして、乗数的に会社を成長させたい!

動画を始めSNSコミュニケーションが必須の時代になるため、変化の先頭
を走り続ける。

2代目は頼りないイメージがつきまとうが、「2代目こそ最強」を証明したい。
我々がいなければ、事業や技術の承継ができず、日本は衰退していく。覚
悟を決めて2代目の道を歩むことを決めた後継者を、心から応援した
い!!


理事:高橋 成紀

『運のいい楽天家』油屋三代目社長

どんな学生だったか?

高校から始めたアメフトに全てを捧げた学生時代。中学では帰宅部だったが、自分を変えたいという想いが強く、意を決し過去2度の全国優勝を誇る強豪チームに入部。3か月後に体重が12㎏減。その後まじめに筋トレを継続し25kg増。高校3年で全国優勝を経験でき、その後進学した大学でもアメフトを継続する。

大学では学業と部活の両立で遊ぶ暇もなく、青春時代の多くを犠牲にした代わりに得たものも非常に多く、「あと一歩で日本一」を3度経験。数多くの困難な状況を乗り越えてきたが何事も鍛錬だと思い修行する方が、誰かのせいにして修行するよりも仕上がりが全然違うというプロセスや経験値は今の思考回路の原点に。そして当時の仲間は一生の宝に。

サラリーマン時代

学生時代に部活を最優先するあまり、疎かにしていた分を取り返そうと思い、また、いずれは家業を継ぐことを意識していたため、当時の就職情報誌に短期間で成長できる企業ベスト3に入っていた外資系IT企業に入社。学生時代に続けていたアメフトも社会人チームで継続し、主将を4年間務めチームとして悲願のトップリーグ昇格に貢献する。仕事では会社のブランド力で営業する人が多いことに疑問を感じ、自身のブランド力を高め磨くことにこだわり、ノルマを達成することよりも自身の経験値を上げることを優先する。仕事とアメフトと家庭の高い次元での両立を目指すことで、多くのものを学び経験し吸収する機会となった。多忙な日々を送る中で様々な経験を通して、「人生において無駄な経験や時間はない」という自身の哲学とも言える学びのきっかけにもなった。

入社のきっかけ

実は小学校の時から覚悟はしていた。きっかけは病気の部長の穴埋めのため。

父親との関係

上司・部下の関係だが、それよりも父親・息子の関係が優先。

それ故にお互いタブーな一言が多い。

入社して感じたギャップ

社員の仕事に対してのモチベーションの違い(何の為に働くのか?)

落ち込んだことは? 

悩みを抱えるより常にポジティブに捉えて前向きに生きることの方が人生が楽しくなるということを、スポーツやいろいろな経験を通して学んだ結果、楽天家に。楽天家なので落ち込んだり悩んだりすることはほとんどない。同時にどんな状況でも「自分は運が良い」と脳内変換することで、過酷な状況も自身を成長させる糧と捉え、またそういう経験を積み重ねることで心が豊かになり「日常がワクワクしたものに変わる」を日々実感し楽しんでいる。

どう乗り越えたのか?

基本的に落ち込むことは少ないが、自身の価値基準をコントロールすることで、ストレスからも解放され、日々の出来事全てに感謝の想いを持つことで、比較的気軽に乗り越えることができる。

また、周囲の先輩社長や社長仲間と悩みを共有することで乗り越え経験値も上げている。

最近はランニングしながら繰り返し自問自答することで悩みを超越し悟りを開いている。

今後のビジョン

数年に渡り母校アメフト部でコーチを経験し、毎年メンバーが入れ替わる学生スポーツの世界で連覇を成し遂げた監督の元で強いチーム作りや組織のマネジメントを研究し、ビジョンの大切さ、理念の大切さを学び、現在の組織運営にも役立てている。経営理念の浸透を図り、地域や社会に必要な燃料インフラ会社として多く皆様に認知され100年企業を目指す。


監事:楢原 一典

「お客様のありがとうがモチベーション」2代目税理士

どんな学生だったか?

高校生までは平凡で真面目な学生。

親の意向で、大学は政治経済学部に進むも学部の勉強に興味が持てず、授業には全くでなくなる。この頃、悪い友達が増えて色々な遊びを学ぶ。

親の意向で、会計士資格取得のための専門学校のダブルスクールを始めるが、資格試験をすることが嫌で嫌で仕方がなかったため、こちらも授業を受けなくなり、ドロップアウト。

結局、大学3年間遊び呆けてしまい、周りを見回したら、みんな就職活動で仕事が決まっており、そろそろまずいなと思いなおし、専門学校に再度申し込みをする。

サラリーマン時代

大学卒業後も浪人しながら資格試験にチャレンジし、2度目の受験でかろうじて合格(都合3年かかる)。合格後は監査法人に就職、勉強し過ぎた反動で失われた3年間を取り戻すべく、週2で合コンをする。

監査法人は、頑張れば頑張るほど、クライアントに煙たがられるのが嫌で4年で退職し、 税理士法人に転職。この頃、弟も資格を取得し、実家は弟が跡を継ぐことになる。

入社のきっかけ

敷かれたレールの上を走っていると言われるのが嫌で、自身で独立開業し、10数年経営。その間に実家の手伝いで戻ったりもしていたが、自分の子供の頃から知っている社員もいて居心地が悪く、早々に退散。

その後、法人の東京本部のサポートのため自身の事務所が吸収される形で合流する。

落ち込んだこと

親を超えることが2代目の呪縛から解放されるときと思っていたが未だに親を超えたと言える実感がないこと

どう乗り越えたか

乗り越えたわけではないが、最近は2代目という事をやっと素直に受け入れられるようになった。

今後のビジョン

元々自分には向いていないと思い、心底やりたくなかった家業ではあるが、やってみたらこんなにやりがいがあって、しかも自分に向いている仕事であった。そういった意味では、無理やりにでも引きずり込んでくれた両親には感謝しかない。

先代が果たせなかった夢を叶えるのが2代目の使命であると考えている。そういった意味では、税理士法人の規模を拡大させ、業界内で認知されるだけの存在になることが次の目標である。

おまけ

田舎暮らしをしたい 女性は苦手 押しに弱い


会員 :音田崇幸

大田区オタクの温泉税理士

税理士法人おおた総合会計事務所代表社員副所長の音田崇幸です。 二代目の公認会計士・税理士として、大田区を中心としたお客様に総合相談・総合手続業務を行っています。

父親との関係

事業承継に関する会での自己紹介として、まず現所長である父との関係に触れなければなりません。 私が幼少の頃、父は1年365日のうち360日は外出していて、夕食を共にしたことが ほとんどありませんでした。仕事・兼・飲歩きの毎日だったのでしょう。お客様である大人達から「音田先生」と呼ばれ、 お中元お歳暮のシーズンには山のような贈答品が自宅に届くので、父はすごい人なのだ、と子供心に思っていました。

入社のきっかけ

そんな私は反抗期を迎え、公認会計士である父と関連する経済学や、母の出身学部である法学は断固としてイヤと思い、進路には社会学を学びました。 ところが兄と妹に挟まれた三人兄妹の真ん中である私はものすごいさみしがり屋で、大学の「疎」で自主独立を重んじる人間関係になじめず、 とうとう体を壊して入院してしまいました。 大事な時期でしたので結局就職も思うように行きませんでした。そんな時に父に拾ってもらい、父の事務所で事務員として働き始めました。

どう乗り越えたのか

私は、ここぞという時の集中力はそうそう負けない自信があります。がむしゃらに仕事と勉強に打ち込み、公認会計士・税理士・ 特定社会保険労務士・特定行政書士・フィナンシャルプランナーの資格を取得し、それぞれの業務でチャレンジして十分な実務経験を積みました。 そうすると、それなりの社会人として周囲に認めてもらえているという自信が付いてきました。 しかしその自信というのも、父や家族が環境と整えてくれ、時には私をけしかけて私に思う存分やらせてくれたからで、 父や家族のありがたみを強く感じる日々を過ごしました。父には、感謝しきれない程に感謝しています。

今後ビジョン

そのような過程で、おおた総合会計事務所のやってきた、そしてこれからもやっていきたい基軸のようなものを、自分自身の人生に基づいて自分なりに言語化しました。 その基軸は「ライフトータルサポート」という、人生を共にする支援・相談のイメージで表現でき、三つの要素があります。

①私の学問上のバックボーンである社会学は、「複線思考」という、自分ではない人は物事をどのように見ているのか?ということを常に意識する少し変わった学問であり、 それはお客様との相談の際に常に意識し、頭ごなしの説得ではない相談業務に活きています。

②私の入院経験は、他者の痛みや困難さ、障害を知ったり慮ったりする習慣となって私の人格形成に影響しましたので、相談業務の際にお客様の心情に寄り添うことができます。

③そして私の複数資格と豊富な実務経験は、お客様にお目に掛かる当初から信頼していただき、総合的な手続き実行を通じてご満足くださるために活かされています。

私自身が事務所での営業活動を担当するようになり、それなりに自信が付いてきまして、それに伴い現状では父とのケンカが頻発しているような状況ですが、 私の絶対に譲れない基軸として「父をはじめとした家族への感謝・恩返し」と「お客様へのライフトータルサポート」があります。 私が立ち上げた新規事業である社会保険労務士業務は未だ小規模ですが、拠点、人材、マーケティングの構想を練り、税理士法人からのスピンオフを画策しているところです。

また、税理士業務と社会保険労務士業務に通底するマーケティング戦略として、「大田区特化」を打ち出しました。基軸である2点の実現のために効率の良い考え方だと思っています。

今後はこの軸で大田区での総合相談・総合手続業務に邁進していく所存です。

私は、近い将来に来るべき父の引退を見据え、長期的な視野も忘れずに事務所の体制構築と自分自身の経験のより一層の蓄積を行っている最中です。二代目としては未だ道半ばですが、どうぞよろしくお願いいたします。


会員:久保田 隆

[改革•改善即実行戦略]はぐれメタル社長

どんな学生だったか?

伝統ある男子高校に入学したが、学業についていけず苦しい高校生活をおくる。大学では、人生初の硬式野球部デビューを果たすがベンチウオーマー。だが、男子高校時代に眠りしパワーが開花し毎週合コンに参加、営業トークの基礎?を学ぶ。ゼミでは起業家精神を研究し多くの経営者に会い、成功する前からブレない経営者の信念と人間性にふれ、将来、成功する経営者になり社会貢献をする事を決意した。

サラリーマン代時

屋根のトップメーカーに入社、最初の配属先が福岡の支店。工事課に所属し現場管理をするが自分の段取りが悪く、九州の怖い職人さんに指導受け仕事を覚える。その後、熊本営業所に配属され設計折込、契約、現場管理、職人とのコミュニケーションなど業界全体の仕事を俯瞰して見れるようになる。

入社のきっかけ

小学校の頃から「30歳になると大きな岐路がある」その時、どちらの道に進むか決断しなければならないと親父から聞いて育ってきた為、入社7年目30歳になった時、悩んだ末決断し、起業家精神を思い出し、会社の大成長を描き、ワクワクしながら入社。

父親との関係

トップダウン経営、改革・改善意見はいらない。思い・意見を伝えると圧倒的圧力、意見対立の毎日。守りの親父と将来に会社が存続する為に業態変化を迫られている私との間に修正不可能な深い溝が出来る。 

「親に向かってなんだその口の利き方は!」 が親父の習慣的言葉になる。

私が九州で培ってきた熱き思いとスキル、ゼミで学んだ起業家精神、将来に対してワクワクしていた気持ちは一切消えた。

会社のビジョンも理念も一切語り合わないないまま、時が過ぎ、私にとっては親父が会社の発展を妨害する最悪な存在にしか見えなかった。

結局、20年間親父と経営について方針が合うことはなかった。

落ち込んだこと

42才の時、突然、代表取締役職を渡される。多額の借金と赤字体質のまま引継ぎ打合せもないまま渡され会社の状況を把握する事に時間がかかった。会社継承を軽んじている親父に失望し、自分は何でこんな会社を無理やり継承しなければならないのかと絶望した。

  • どう乗り越えたのか

「職人の社会的地位向上」を掲げ、「下請けからの脱却、施主企業から直接契約」をミッションとし、会社の強み「60年蓄積してきた技術力」を基に下請け新築工事をやめ工場環境改善+建物の長寿命化改修工事専門に切り替えた。施主企業へ直接提案営業を徹底し、適正利益を基に財務体質健全化を目指した。更に価格競争のない独自工法を主軸に他業種と協業し共に利益の上がる体制を強化、横展開する事で安定した売上向上を目指した。

今後ビジョン

職人の社会的地位向上を実現する為、職人のお客様対応力・施工技術力・現場管理能力を磨きリピート物件を増やす。

「本業を天まで伸ばす」+「新工法の研究・開発」+「新市場創造型商品の開発・ベネフィットクリエイション」+「空環問題解決・空環ファクトリー」を掲げ、世の中に必要とされ感謝される人々の安心創造企業となる。

売れる独自商品を生産し、職人が何歳になっても働ける会社を創る。

人生理念「AIーsmile いつも笑顔で物心共に豊かな人生を共に過ごす。」を実現する。


会員:若菜 義大

『初志貫徹に生きる』2代目社長

第二の故郷は青森とブラジル!

どんな学生だったか?

幼いころからプロサッカー選手になるのが夢でした。地元の中学から青森山田高校へ特待入学、1年時は単身ブラジル留学、2年でポジションをつかみ取るもオーバーワークで血尿やアレルギーを経験・・・。また初めて全国大会出場。3年時には2度の全国大会でベスト4を経験するも「プロ」のすごさを目の当たりにし、両親への感謝から造園の道を志す。

入社のきっかけ

高校3年の春にセレッソ大阪とベガルタ仙台の2チームのスカウトから声を掛けてもらい練習参加(この時までプロ志望)。その夏のインターハイで全国ベスト4を経験(この頃から気持ちに変化)。秋に清水エスパルスと試合をし、「プロ」の本気と現実を見る。最終的に冬の選手権で2度目の全国ベスト4を経験し、両親への感謝から造園の道を志したことに後悔はない。

充実の修行時代

造園の専門学校を卒業後、わかな造園に入社。管理業務が多く、もっとクリエイティブな仕事がしたいと思っていた矢先に、大きな仕事のチャンス。この時の経験で、より自分を高める必要があると思い、他の造園会社にステージを移す。朝から夕方まで現場、夜は設計や座学と造園漬けの生活を3年送り、この時取得した資格は国家資格含め6つ。                   

父親との関係

いわゆる職人気質の人間でよく現場で怒られ、「なんでこんな言い方しかできないんだよ」とぶつかり合っていました(笑)でも20年経って様々な職人を見てきて知識やスキルの高さは父から学んでいて良かったと今は感じています。現在はだいぶ穏やかに?職人の育成に尽力してくれています。

入社して感じたギャップ 

どんぶり勘定と請求忘れの多さ。感覚的な利益で数字を全く気にしていなく見積もりも曖昧だったり、甘いことが多かったです。結構、顧客から「請求書きてないんですが・・・」とご連絡を頂いたりと、今思うとよく生き残ってこれたなと思います。また社員がいなかったので、教わる人が父だけでした。

落ち込んだこと(転機)

経営者の仕事を学ぶ機会に巡り合い、愕然とする。このとき数名の社員がいましたが、自分のやっていることはプレーヤーであってマネジメントではなく、そもそも「何の為」に仕事をしているのかを突き詰めて考えるきっかけ。

若菜の人生最大の理不尽:大切な社員との突然の別れ

どう乗り越えたのか(現在進行形)

経営理念・ビジョンの明文化と社内外共有。私たちはどんな理念の基、何を提供し、社会に貢献している会社なのかを社員や協力業者、顧客にも分かるように明示し、自己肯定感を高めあう環境整備を行っています。3年間は利益より人材共育に刮目する。

亡くなっても意志は生きる。弊社の永遠のテーマ「最強のチームづくり」

今後のビジョン

国内で失われつつある日本の庭園文化を海外展開できないかと模索中。実際にベトナムでのニーズと寺社のマーケットを掴み、チャンスが広がっている。現在、ベトナムから技能実習生を招致し、造園のスキルや知識を承継後に彼らをベースとした現地法人を開設する。

またVRやARを活用したハイスペックなパーソナルガーデンの提供ができないものかと、こちらはぼんやり模索中。メリットとしてターゲットマーケットが無限に広がる。今までのマーケットはお庭をお持ちの戸建て層という固定概念をぶっ壊せるのとそもそも海外展開する際には映像を持ち出すのは手っ取り早いこと。四季や昼夜の映像(ライティング)なども自由に表現できる。


会員:芝田 麻里

おっとりお嬢ちゃん二代目弁護士

芝田総合法律事務所 代表弁護士

どんな学生だったか?

東京都大田区で生まれる。
小学5年生まで埼玉県草加市で育つ。
両親ともに奄美大島加計呂麻島出身。
父は弁護士。
一つ違いの姉は学校開闢以来の秀才と言われ、周囲の期待を一身に集める。
当然、将来は弁護士。
子供心に自慢の姉。
姉のおかげで誰に期待されることもなく、
幼少時代(小学生時代)は自由に川でザリガニをとったり、虫と遊んで過ごす。
大学時代。
テニスサークル等、いろいろ所属してみたものの、
「法学研究会」と肌があって定着。
周囲に勉強好きで優秀な友人が多かったため、
もっぱら試験直前期にノートを回してもらって、
3年までの間に単位を取得。
4年になり、友人たちが就活にいそしんでいる頃、
ふと弁護士になろうと考え、勉強を始める。

受験勉強時代

23歳。大学卒業1年目。
当時の司法試験の択一試験(一次試験)に合格する。
難関といわれた択一に意外と早く受かったことに
気をよくして、「そのうち受かる」気分になる。
「20代のうちに裾野を拡げておかないと
それ以降で新しいことをやろうとしてもムリ」
という趣旨の書籍に出会い、
「20代は興味が向いたことを手当たり次第にやる」。
(「司法試験受験生」というのは周囲向けのステイタス?)
1年間に映画を300本以上観る×3年半
塩野七海(古代イタリア史、中世イタリア史)、
宮城谷雅光(古代中国=春秋戦国時代)の既刊の書籍を完読。
29歳。未だ合格していない自分に気づく。
あらかた裾野を拡げることに満足したので、
試験勉強にまじめに取り組むようになる(真剣度70%程度)。
31歳。3年程度「まじめにやったつもり」でも受からない(自己流が通用しない)ことに気が付く。
32歳、33歳。論文試験に1点差で不合格。

本気スイッチが着火

司法試験は、
「下りのエスカレーターに乗って駆けあがっているよう
なもの。スピードを緩めるとどんどん下がっていく。」
34歳。択一試験でかつてない合格には程遠い点数をとり
「もう受からない」気持ちになり落ち込む。
35歳。択一26点。合格が見えなくなり、
諦めることを考え始める。
合格した友人に
「諦めるなんて許さない」、「自習室で一緒に勉強しよう。」
と言われ、半ば強制的に勉強を再開。
友人に勉強方法について徹底した指導を受ける。
指定された方法で勉強時間をストップウォッチで管理しつつ勉強を再開。
応援してくれる友人ために「やるべきことをやる」と決意。
37歳。択一46点。一点差で択一不合格。
ロースクール制度が始まり、旧司法試験は廃止されるため
翌年の合格予定人数は100人。
38歳。択一58点。最終合格。口述試験は12位。

どうして弁護士を目指したのか?

小学生の頃、友人に「お前のお父さん悪者の味方」と
言われ、父に話すと、ビクトル・ユーゴ―の
『レ・ミゼラブル』について聞かされる。
『レ・ミゼラブル』は主人公が貧しさのあまり
空腹の甥っ子のためにパンを一切れ盗んだところ、
19年間投獄された、というところから話が始まる。
盗んだことは悪い。
しかし、パンを一切れ盗んだのに対し、
19年間の投獄は明らかに重すぎる。罪刑の均衡。
主人公はまじめによく働いていること、
それでも貧しく、幼い子供に食べさせるために
やむなくパンを一切れ盗んだことなどを
誰かが主人公に変わって説明してくれたら
彼は19年間も投獄されずに済んだかもしれない。
そういう事情を、本人に代わって説明するのが弁護士だ。
といわれた。
それを聞いて直ちに「弁護士になろう」と思ったわけではなかったが、
その話はいつも心の中にあり、
大学4年になり、周囲が就活にいそしんでいる頃、
自然と弁護士になろうと思った。

父親の仕事をどのように見てきた?

高校生、大学時代から仕事の話をよく聞かされた。
司法試験受験生の頃を通じて事務所でバイトをしながら
父の仕事の様子を見て父の仕事のやり方を学ぶ。
廃棄物処理法に関する問題を専門としており、
「強きをくじき、弱きを助く」が父のキーワード。
弁護士の仕事は訴訟が提起されてから、考える、いわゆる訴訟弁護士。

今後ビジョン

廃棄物処理法に関する問題を専門とする特色を活かしつつ、
訴訟弁護士から「かかりつけ弁護士」へ
予防的司法の観点から業務を拡大していきたい。
顧問先の拡大。事業承継、M&Aのデューデリジェンス、
行政交渉などフィールドを広げたい。
特に、廃棄物関連は、法律の縛りが強く、
普段の日常業務についての顧問(契約書の確認、適否のご相談等)をしつつ、
行政に違法を指摘されることのないよう安心安全な業務を
行えるよう助けていきたい。
また、仮に違法を指摘された場合には、
迅速かつ的確、丁寧に行政に対応できる事務所を作っていきたい。
できれば、銀座に50年続く事務所として、
銀座の商店の事業承継を手伝うことによって、
銀座を元気にしたい。


会員:山本 佑司

『わがまま戦略』次男坊社長

生い立ち

中学時代にJリーグ開幕。サッカー漬けの毎日。サッカーを続けたくて高校も選択。 が、3年の夏に膝の故障で挫折。特にやりたい事もなく福井工業大学へ。 そこで車とバイクで遊ぶ事を覚える。卒業後は実家の仕事を手伝いながら、 今度はバイク漬けの毎日。峠では飽き足らず、鈴鹿サーキットに毎週のように通う。 特に給料も固定でもらってた訳でもなく、昼間は実家で作業の勉強、夜のバイトで稼ぐ。

それに特に不満もなく過ごす。 ようはやりたい事をやりたいようにやってるだけでした。

バイクから学んだ事

実力の世界、物を使うので腕があってもお金がなかったら勝てない、死んだら終わり、自己責任、やるのかやられるのか、一生懸命やってれば必ず誰かが見てくれてる、何をするにも自分次第。

転機

自分も25歳で子供(息子)を持つことができ、働き詰め。

給料制にしてもらい、やっと社会人。

が、家庭より仕事優先。

仕事優先と言う名の自己満足(もちろん働かないとお金もないが) 自分の事しか考えてない(と今になって思う。この頃は気付いてない) その為に、妻を一人ぼっちにしてしまい27歳で離婚。

父親との関係

自分(職人気質)と親父(経営者)の考えの違いで納得いかない日々。

仮に、喧嘩をしたら、自分も頑固なので行くところまでいってしまう(これは凄くわかる)

親父の経営の仕方では現代では通用しない(もちろん全部ではない)と感覚的に感じるものの、実際どうすれば良いのかはわからない。 高度経済成長期に、一代で起業し続けてきた事は心から尊敬している。

36歳で親父が万歳。

代表取締役を交代。 

自分の考えで仕事すれば大丈夫。と言う甘い考えのまま続ける。

やがて、仕事(作業)と仕事(経営)は、全く別のことを知る。

落ち込んだこと

社員が半年で辞めた。

この人の為ならどんな条件でも飲んだし、やってはいけない事など言わなかった。が、半年で退社。

理由は、この先が不安だから。雇用することの厳しさを痛感。

どう乗り越えたのか

自分には全くビジョンがなかったから。

そしてそれは無責任であることに気づく。

自分よりも、周りのみんなが幸せになるなら良い。と言う考え方が まず間違っていたことに気づくことができた。

自分を変えようと決意し、理念を掲げ、目的を決め、成果を出す。

企業理念

一、自分たちのパワーで笑顔あふれる世界に!

一、社会に貢献できる認められた企業へ

一、縁と絆を大切にできる人に

私たちが発信し、源となる。

雇用を生み、利益を出し納税すること。

私たちは、社会でも何でも土台を作ってくれた人の上にいる。

出会いに感謝し、その気持ちを持つ。

一人では成し得ない最大の成果を仲間と掴む。

今後ビジョン

短期目標 来期には年商1億

綺麗にする!の時代。美は究極の安全への道。

中期目標 物より事へ。体験が価値を生む。お金で買えないものが欲しい。

スポーツをしてきた強みを活かして、体験を生む商品の創出。 3年以内に国内外への自転車ツアー、大会運営を実施。 動画配信を始めSNSコミュニケーションの時代に乗る。 その為に生業である自動車業で稼ぐ。

長期目標  我々がいなければ、事業や技術の承継ができず、日本は衰退する。

後進の育成、雇用を増やして地域貢献。 覚悟を決めて2代目の道を歩むことを決めた。 だから、私はやる。


会員:荒木 知太朗

「しくじりまくりのVMV経営」 15代目嫡男

どんな学生だったか?

高校生の頃にハードロックに感化され英語に目覚める。
桜美林大学国際学部に親戚がいたので何も考えずに進学。
一年の前期テストの際に胃腸炎で試験を受けられずにそのまま留年決定。仮面浪人の末に武蔵大学人文学部に入学。
バスケサークルにどっぷり浸かりながらも卒論を全て英語で仕上げSの評価をもらうという奇跡に恵まれる。

サラリーマン時代

大学2年のときに父親が相続対策のために脱サラして起業。
長男ということもあり継ぐことを念頭に金融機関を志望。アメ横商店会会長の叔父さんのコネでなんとか信金に入社。
腰掛けで入ったので成績は最悪…220位/250人中を2年間続けるも、支店長や先輩に助けられ4年目には一桁の成績まで成長。周囲の先輩やお客様の指導で一応社会人として活躍。融資の回収でヤクザに絡まれたりして世間の一般常識を叩き込まれる。
多くの中小企業の社長と面談し上手く行く会社、ダメになる会社の見極めを学んだつもりになる…
ただ、法務、税務、財務の勉強をしないと給料が上がらないのでそこだけはとことん勉強をする。

家業についてから

信用金庫で丸10年修行をしてから家業としていたゴルフ練習場に入る。
当時から地域で一番単価が高い施設であったにも関わらずお客さんにも恵まれて順調に推移していた。日銭が入ってくることも商売であったため特に苦労を感じることもなかった。ただ相続のために始めた会社なので何を目指している会社なのか?という疑問は薄々感じていた。

入ってすぐに代表になる事件

入社4ヶ月でいきなり代表に就任。なんの引き継ぎもなしに「お前が一応社長な」と、とりあえず経営をぶん投げられる。
雇われ社長のような感じであったので…
当然いろいろと社内で軋轢が生まれて…

いきなり来たピンチ

半ば修行をしながら仕事をしていたが、就任3年目の夏がかつてない猛暑に見舞われる。そこで父がいきなり「だれかクビにしろ」と。「ヤダ」と抵抗したが勝手に二人をクビにしたら労基に駆け込まれ炎上。お陰様で労務関係をしっかりと勉強することができた。

大量離職問題からのビジョン経営
解雇問題から「この会社では不安で働けない」と大量離職が発生しメンタル不調に。そこで経営の師匠にたまたま出会い、そのご縁でビジョン経営というものを知り当社にも導入しようとしたが当然ながらまた摩擦が…
★まずは誰もついてこない
★会長は自分の会社を否定されていると思いキレる

お客様からの褒め言葉

念仏のように唱え、ほぼ押し付けで浸透させようとしていたが上手くいかず…
お客様の目につくところにビジョンタペストリーを貼りクレドカードもお客様に配っていたところ、数名のお客様から賞賛をいただく。
「会社が何を目指して何を提供したいのかが理解できる!」との言葉でようやく自信がつく。クレド経営スタートから苦節5年でスタッフにも理解者出始める。

それでも…社長失脚

それでも強引に進めてきた結果ついに会長にクーデターを起こされ代表更迭に。
要因は他にも色々あるが(お金の問題等)、自分が作り上げたものを否定されるような感じが耐えられなかったのだと今なら理解できる。

大規模リニューアル工事

2年前に実施した大規模リニューアル。内装もガラッと変えるにあたってはコンセプトを決めなくてはならない。そこで役に立ったのがヴィジョンとミッション。自分たちが何者でどんなことを目指しているのか?理想のお客様とは何か?何を提供していくのか? 
VMVをもとに設計をしてもらい→既存のお客様と新規のお客様にも受け容れてもらう結果に繋がり、増収増益を続けることができる。

それでも会長は気に入らず「リニューアルしたものを壊してやる!」

「お前に会社を潰される」と半年くらいは大騒ぎで…

気付き

VMV は未来を描くことだと思っていたがそれだけではなかった。
★我々はどんな歴史を紡いで来たのか★
★その中にどんなUSPがあったのか★
★先代が創ってくれたものを理解しそれをさらに磨く★
この3点を【しっかりと】語らないと多くの人に響かないのだとやっと気付く。

2代目のVMV

「今は評価基準書にも歴史とUSPを入れるようにした」

こういう歴史があり、その結果こういうUSPがあり、それを発展させいくことが我々のVMVである → ここらへんから父が落ち着くようになりました

今までの失敗を基にようやくVMVも固まる

★プライベートな使命
 ご先祖様の預かりもの(資産)で商売をさせてもらっているので預かりものを少しでも増やし次代へと引き継ぐこと

VISION

お客様の元気 従業員の元気 地域経済の元気に貢献する

MISSION

お客様に心地よい時間と空間を提供し、地域の人々が心も身体も元気になってもらうことを目指します

VALUE

元気  感謝  陰徳  応援  (「諧謔」を加えようと思っています)


会員:阪田 大樹

『理想を求める夢想家』 長男2代目社長

寅年 巨人ファン(元

ラッキーカラー 緑

性格

0歳~44歳まで

何でも自分でできると思うナルシスト

44歳~46歳現在

自分一人では何もできないと気づき

性格の角がとれ、丸くなる。

皆でワクワクすることをしたい

ビルメンテナンス(総合ビル管理会社)

文京区で創業43年

年中無休24時間体制 緊急出動対応

①ビル清掃・ビル点検(エレベーター・消防等)

②電気工事・エアコン工事(取付・クリーニング)

③内装工事・外壁工事・防水工事

④賃貸借契約(不動産免許あり)

⑤苦情受付及び処理・家賃請求の事務処理

入社のきっかけ

君は、何でこのビル管理会社で働いているの?

はい、プー太郎だった僕を父(先代)が拾ってくれ

やがて2代目社長として親の後を継ぎました

19歳に早朝アルバイトから始め(清掃業務)

21歳に社員になり現場工事部隊(設備課)で内装工事・点検作業をし

26歳で営業部配属され、電話応対・顧客回り(清掃・設備同時業務)

36歳で父が亡くなり2代目社長になりました

31歳まで給料をもらったことがなく、

確か31歳の5月に初めて初給料として8万円もらえました

私も、その時にやっと父から認められた感じがしました

父親との関係

田澤『ちょっと聞くけど19歳でアルバイト、36歳2代目社長になってあなたは今46歳だけど会社で今まで何してきたの

阪田『先代の父が私にとってカリスマ的な存在で、父の言われた通り早朝5時起きで、現場に6時に入り早朝清掃し(清掃業務)夜は父が夜のお勤め(夜遊び)の運転手をし(夜中の1時)昼間は電話番・事務仕事・顧客回りで、原状回復(内装工事)に駆り出されたり31歳まで無休で父に仕えておりました

36歳で2代目になり、父の運転手の仕事からは解放されましたが亡き先代の言う通りに早朝~夜9時頃まで仕事してました』

田澤『えっ、それじゃあなた親父さんの言いなりじゃない。しかも、お父さん亡くなったんでしょ!自分の考えないの、よくそのなんで2代目社長なれたね』

阪田『確かに36歳~44歳まで父の呪縛ずっと囚われていました。

はじめは、いきなり自分の理想を古参の社員に押し付けたら拒絶されうまく行かないと思ってたので従来通りの先代に言われた通り振る舞い、2代目社長と言えども古い慣習に従う振りをしておりました。

しかし2代目になって8年間変わらない日々を過ごし時の砂に埋もれ、理想をかかげるのが面倒になりました』

落ち込んだこと

阪田:44歳の頃に異業種交流会に入会し、個性的なメンバーと一緒に毎週ミーティングをやる事で刺激を受け、2代目社長なった当初の怒り(長男という理由で無理やり継がされた)を思い出しました。何が古参だ、先輩だ!、俺のやり方で会社を染めてやると気持ちが転換しました。異業種交流会は、僅か1年で卒業しましたが、苦しい思いし自己成長できたので良かったです!また、色々な人脈ができて時間はかかりましたが、具体的に理念何をするか少し固まってきました。

会社の理念

・皆が集まって、楽しく暮らせる社会を創造する 

・ビルの価値を上げ、お客様の価値を上げる

・本当に住みたくなるような安心、快適、オシャレな環境を創造

・プロのビルコーディネーター

・良き文化は保ちつつ新しい風を引き起こす

・数字とビジョンが予めハッキリ見通せるからこそ希望が持てて、モチベーションに繋がる

今後のビジョン

・清掃作業員にホテルマンの格好をさせホテルマンの振る舞い(仕草・挨拶)をしてもらう(ここのビルに来たお客さんに特別感を与える)

・ビルオーナーさんに3年先・5年先・10年先・30年先ビル修繕計画及び資産運用(家賃収入)の数値を提出し、先々の提案

・ビルオーナーさんの相続問題を解決

・玄関エントランス、エレベーター内、共用廊下外壁を彩り

(四季に合わせた演出・近未来・映像装置)

 ビルに来る人に感動を与えるエンターテインメントを提案

・コーティングや大量マイナスイオンでビル内の空気を最高のものにすることを提案

・防犯、防災、非常時の備蓄(食料、電気)など緊急事態の備えを提案

・AI等(予算内)テクノロジーを提案

今後は、自分を信じ、信念に基づいて、仲間と共に進んでいきたい。世の中へ明るい希望の光となりたいです。


会員:村田弘子

「事業承継をM&Aでなく結婚で解決します」2代目税理士の妻

一般社団法人良家の結婚相談士協会 代表理事

どんな学生だったか?

10歳から大学受験までは1日8時間ピアノに向かう、音楽家志望。

ところが、高3の夏、親に呼ばれ、「やっぱり音楽は食えないから、女子大に行ってさっさと嫁に行け」と言われ、ショックを受ける。「だったら、最初から音楽をさせないでよ」と恨めしかった。
親のすすめで女子大に進むも、勉強したいことはひとつもなく、コンパばかりの女子大生活は時間の無駄だと、授業にはでなくなる。なんとかして音楽をやりなおせないかと、親に中退を申し出るが、「卒業してからやれ」と言われて、言いなりになる。

やりたかったことの道を閉ざされたため、やる気を失い、「もうこうなったら、チャラっと生きてやる」と決意。就活時は、「立ち仕事」を選び、局アナやCA、販売職を受験した。「立ち仕事」が、どうしてチャラいのかよくわからないが、当時の自分はそう思ったようだ。
その後「飛行機が落ちると心配だから、CAはやめてくれ」と母に泣かれ、和光に入社。
かえすがえす、親のいいなりの主体性のない長女であった。

サラリーマン時代

女性の職場なので出会いはあまりなく、2年目のときに学生時代からの交際相手との破綻を機に、「恋愛なんてあてにならない、今、結婚しよう」と決意。OGからのお見合い話に、何も考えず、「はい、私が行きます」と即答。お見合いをした翌月の確定申告終了日、東京会館で結納となる。

入社のきっかけ

結婚したら、家業を手伝うようにということは言われていたし、新婚旅行から帰ると、義母がそろばんを片手に私を待ち構えていたため、自然に会計事務所入所。

落ち込んだこと

結婚したらすぐに、「子どもを3人以上、そのうち一人は男子を生み、その子を会計士に育てなさい」と言われたこと。男女産み分け注射を打ってきなさいと言われたこと。嫁には人権がないのかなと思った。

どう乗り越えたか

経済力が自分になかったため、乗り越えるという選択はなく、今は人生の下積み期なのではないか、ということで自分との折り合いをつけた。私が乗り越えたのではないが、結果的には神様の同情を買い、一男二女に恵まれ、グレていた息子も最後だけ勉強して資格取得。いちおう、宿題は達成できた。

親からのプレッシャーに常におびえ、卑屈に反抗してきた私だが、3番目の子が大学受験を終えたあたりで、「誰か娘にいい人を紹介して」と言われることが続き、ならば私がと、義父がしていた仲人を事業として開業した。

そこから8年、「全国の中小企業の社長令嬢令息の結婚問題を解決することで、後継者不在による廃業を食い止めること」一筋に、一つでも多くのご縁をまとめたいと、365日東奔西走している。後継ぎ後継ぎと言われることがイヤでたまらなかった嫁だったが、今になり、義父の「継ぐ」ことへの執念を理解するようになった。鬼だった義父は、今は、社長の不屈の精神を教えてくれた、大切な恩人である。

今後のビジョン

後継者不在による廃業を食い止め、オーナー家の人的資本の創出から、少子化の日本の経済を衰退から発展に向ける。


会員:武藤清晃

「流れ流され今にいたる」2代目お坊ちゃん保険屋

どんな学生だったか?

学生時代はまったく努力もせず。勉強もほとんどしませんでした。入れそうな高校になんとなく入り、学校の先生にオススメされた大学になんとなく入りました。

サラリーマン時代

学生の頃から親が社長やってるから後を継げば俺も社長になれるぞ、ぐらいに考えていたので、とりあえず修行としてまずはサラリーマンをやるべきなんだろうと考えてはいましたが、リーマンショックのおかげで買い手市場になった事に加え、私自身の人間性の無さを人事担当の方にことごとく見抜かれ、まったく上手くいかず。最終的には就職が決まらぬ事を母が保険会社の担当営業に愚痴った事をきっかけに1年間の研修という名目で保険会社の直属営業として拾ってもらいました。 1年間の研修時代も、本人なりに頑張ったつもり(今振り返れば、まったく努力が足りてませんが。。。)でしたが、ここでもまったく芽が出ず。。。 今の時代ではビックリするような厳しい言葉も頂きました(言う人の気持ちも分かるし、結果を残さない自分が悪いので何も言えず。。。)

入社のきっかけ

そんなこんなで1年間の研修が終わり、今の自分の会社に入社。監視の目も無くなり、後は開放されたぞ!と甘えを全開にしていた所、入社半年で社長である父が脳の病気で長期入院。後遺症も残り仕事の能力は半減してしまいました。会社と言っても実務を行っていたのは父1人で残りは事務を行なってくれるパートのおばちゃんのみで入社早々、窮地に追い込まれました。

落ち込んだこと

「お父さん大変だと思うけど、頑張ってね応援してるよ」と笑顔で言ってきた同業者が実際は裏でウチの仕事を奪いにかかってきてるのを知って人間なんて簡単に信用してはいけないものだなと感じた事

どう乗り越えたか

とにかく仕事にがむしゃらに取り組んだ事で、なんとか会社を守ったこと

今後のビジョン

この業界では会社の規模を大きくする方法も形もある程度、固まってしまっているし、保険会社に比較すれば小さい存在ですが、既存の形を破っていきたい。どんなにネットが普及し、保険会社の価値観が変容しようとも、自分の軸を貫いて、本当に地域に求められる会社でありたい。

おまけ

友だちと趣味でYoutuberやってるので、そちらも見て頂けると嬉しいです!


会員:名取 和正

『何事もおかげさま』 三代目候補

どんな学生だったか?

日本大学高等学校→日本大学理工学部でコンクリートの研究にハマる。

水泳でインターハイに出るほどまでに打ち込んだが、社会人になったらスポーツなんてお金にならないんだからと、本腰入れてやってなかった冷めっぷり。基本推薦で大学まで来てるので、就職も人事の方に気に入ってもらう戦法で、インターンでコネを作り、難なく入社。

サラリーマン時代

橋を架けたくてゼネコンに入社し、東横線・副都心線直通工事の計画にて、自由が丘駅のホームを夜な夜な伸ばす計画を担当。今では信じられない程の圧力で有名な先輩社員にしごかれる毎日。うつ病診断されながらも耐え続け、一年目から大抜擢か不明だが、責任者をさせられる。プレッシャーで押し潰されながらも、工事完了し、電車が無事通ると涙が出る。とても貴重な経験をさせてもらった。

入社のきっかけ

期待していた社員に独立すると巣立たれ、今後どうしようかと考えていた社長(父親)。相談されても帰る気は無いと伝え、でもなんか引っかかる。せっかく長く続いた会社。その時、お世話になっていた保険屋さんからのひとこと。「継ぐのも親孝行の一つだよ」、その言葉に妙に納得し、入社を決意。

父親との関係

心配性な父と、楽観的な自分。一つ一つに対しての物事に心配をする父親のペースには付いていけない面もあり、話していて結構疲れる。

でも、根本には「ここまで育ててくれたことへの感謝心」が強く、今でも父が社長でいる限り、立ててあげようと心から思う。

入社して感じたギャップ

組織化していないため、基本野放し。ゼネコン時代はチームで動いていた。情報は共有しながら、間違いが無いように確認しながら進めた。入社してからは、一人で見積~現場管理~請求~アフターサポートまでを担当。

それぞれに時間がかかり、提出物が遅くなる、残業増える、余計に任せられない。負の連鎖しかない。

落ち込んだこと

人の汚さを痛感。「払うからとにかく仕上げて!急いで!」に信用して工事を終わらせ、いざ請求すると、一部は愚か、1円も払わないで蒸発する人は少なくない。人を紹介されることに恐怖を感じる。この8年、1500万近くは貰えず、連絡つかなくなった人も数人。建設業ってこんなところなのか。。仕事した分保証されているサラリーマン時代はとても恵まれてたと実感。

どう乗り越えたのか

当たり前のことをやってなかった。甘んじて、「契約書の押印」を省いたり、相手の口車に載せられるがままに動いていた。一見さんなら頭金をもらってから工事に入る等、リスク回避の方法を勉強し、実践し、更には怪しい人は直感で本当に怪しい人だとわかるようになった、鼻が利くようになった。

今後ビジョン

建物の高寿命化を図りたい。

漏水はその日に来ない。明日、来月、来年にくる。それまでは分からないからこそ、健康診断が必要である。万が一漏水してしまったら、対処療法では絶対に完治しない。根本原因の解決が全て。それを見つけ、直してあげる。それが弊社にできる精一杯の努力、貢献である。

会社にビジョンがなかったからこそ、自分の気持ちを体現できる。

現状に感謝し、もっと価値ある会社を目指していきたい。


会員:山田 慶一

『ロックンロールおぼっちゃま社長』(予定)

幼少期

小学生から超野球少年。年齢が上の代のチームに交じるもレギュラー奪取。

チームが優勝してなくても大会MVPを獲得するほど活躍し、メジャーリーガーになる夢を持つも中学時代にアキレス腱や肘のケガにより夢を断念

学生時代

野球断念後、ロックに出会いのめりこむ。

歌うよりもギターが楽しかったため、ギタリストととしてプロを目指す

大学卒業後もギターに没頭し、25歳まで音楽活動を継続。

プロミュージシャン達と対バンしたりメジャーレーベルから誘いも来るようになるが、メンバーが失踪し解散。

そろそろ潮時だなと悟りサラリーマンになることを決意

サラリーマン時代

社会人生活を満喫・・・と思いきや、入社したのが超がつく程のブラック企業であったため、精神的に病み、体調も悪くする。それでも「石の上にも・・・」と3年は続ける

入社のきっかけ

この先この会社に居ても何も成長出来ないかもしれないと思い、転職を決意。

やりたい事があったわけではなかったので保険代理店の社長を務める父に相談したところ保険の代理店として独立出来る制度がある事を知る。なんとなく良いかな、と思い軽い気持ちで父と同じ道を歩む事に。

仕事をしていく上で選択肢が拡がり、何も知らずに一からやるよりも、今のうちから間近でノウハウを学びながらの方が将来の為になるかも?と考え、一人で独立ではなく父の会社を継承するコースに変更する⇒2年間の研修生活を過ごす

父親との関係

父の代理店に入社。

父とは見た目も性格も全く違うため、他の社員やお客様、各保険会社の担当など様々な人間から何かと父と比較され続け嫌気がさしながらも、「自分のお客様」を増やす事を念頭に日々奔走中

今後のビジョン

元々父の他には社員が2名の小さな会社のため、企業理念や将来のビジョン等は存在しなかったが、世の中に必要となる企業となるためには今後必ず必要になるため、今後は企業理念の刷新や社内インフラ整備、組織化等あらゆる問題に少しずつ取り組んでいく予定


会員:坂田 晃一

「関わる全ての人を笑顔に」2代目新聞店

有限会社坂田新聞店専務取締役

オレンジサンシャイン代表

どんな学生時代を過ごしていたか?

中学、高校はサッカー、大学はゴルフとスポーツを真剣にやっていた学生時代でした。明治学院大学を卒業後はハワイのカピオラニコミュニティーカレッジに留学して異文化での経験を積みました。

小学生の頃から、放課後には学校が終わると3~5人が常に遊びにくるような環境だったのもあり、チームメイトと喜びを分かち合えるスポーツを今思うと選んだと思います。それもあってか、大学のゴルフ部もチーム戦では最優秀プレーヤーなどを3回受賞するなど成績を出しましたが、個人戦は振るわない事が多かったです。

父親からは「お前には自然と人が寄ってくるな」と言われるように、昔から人にはすごく恵まれていたと感じています。

他社で働いていた時代

本の大学を卒業してから、ハワイに留学し、カピオラニコミュニティーカレッジを卒業後、イタリアのアパレルブランドDIESELで販売員として働きました。海外の成果報酬型が強い給料体系を目の当たりにするなども含め、チームで働きながらも個の力の重要性も認識しました。一定期間で測られる売上比率で全米ナンバーワンを取ることも出来、いかに目の前の人にとって本当に必要としている物を提案するかという事と、お客様に寄り添うコミュニケーションの重要性を実感し、それを日本に戻ってきてからも大切にしながら仕事をしています。

入社のきっかけ

2011年の8月に入社しました。その時に、ビザが切れるタイミングもあったのと、いずれ家業は継ぐことになると考えた時にみんなが大変な時に時間を共有することが、信頼関係の構築のスピードを速めると感じ入社を決意。

入社して感じた事

入社して1カ月は現場をみたり、色々な人に話を聴くだけでなく社内アンケートを実施。

会社の大切にしている部分が伝わっている部分と伝わっていない部分があるのを感じたのと、公平のようには見えるけど、公正さに欠いている部分があると感じました。そして、父のカリスマ性を活かしたトップダウン式の経営だったのをボトムアップ式に変えないと社員の成長と未来はないと感じた。そこで、意識を共有するための会議や評価制度は公正さを意識して作り変える事にしました。

落ち込んだこと

父が業界の中で有名な事もあり、かなりの色眼鏡で見られました。妬みややっかみだけでなく事実ではない批判なども経験しました。父に気を遣うあまり、奇妙な特別待遇などもあったのは自分としては嬉しくなかったことでした。

そして、新聞業界自体も景気が一気に悪くなり、赤字を出していなかった会社が自分が入社した後から赤字になる事があった事です。

どう乗り越えたか

色眼鏡で見られている評価を全て覆してやると決意し、まずは周囲が認める結果を出す事を心掛けました。成果と共に自らの意志や想いを大切にしたうえでコミュニケーションを取ることで、「坂田晃一」として見てくれる人が多くなりました。その結果ビジネスの幅も広がり、会社だけの付き合いでなく個人としての付き合いも増えました。覚悟と情熱を持ってやることが変化を与え、周りを巻き込んでいく事に繋がると実感しています

今後のビジョン

新聞販売店のイメージ転換をはかり、地域のお客様にとって「あって(在って、会って)良かった」と思われる新聞販売店を作っていきたいと思っています。

そこに在ってよかっただけでなく、坂田新聞店に出会ってよかったと言われるために様々な情報の提供だけでなく、新しい人、商品や体験との出会いを創っていきたいと思っています。デジタル化も必須になりますのでそこを推進しつつ、新聞代支払いを引き落としにする販売店が多い中、弊社ではお客様と会ってお金を頂く事を大切にしていますのでお客様との関係性強化や、直接お客様からありがたい言葉を頂く事でやりがいに繋がるように人を育てる企業になっていきたいです。

地域にとって無くてはならない存在になっていくのが最終目標です


会員:泉 基幸

「お客様のありがとうがモチベーション」2代目社長

どんな学生だったか?

スポーツ一筋な学生で中学は陸上に励み、高校からはバレーボールを真剣に取り組んでいました。

大学受験に失敗し、浪人の選択はなしに専門学校で親の後を継ぐことを意図して設備科を選択して勉強をしていましたが、周りの学生たちは遊ぶための入学だったので、アホばかりが集まっていました!なのでその時は自分が賢いと錯覚してしまっていました。

サラリーマン時代

専門学校卒業後、父親の会社が取引していた設備工事業の会社に修行という形で入社し、約4年お勤めをしました。

そこで、設備工事全般の経験と、職人さんたちとのパイプを作れたことが今の私の源として感謝をしています。

バブル崩壊後の入社でしたが、建築業界は余韻があったみたいで職人さんたちの言葉に踊らされ、上司の名刺とサインをすることでラウンジでお酒を飲むなど不良社員でした♪(後で怒られる)

入社のきっかけ

中学生のころから家業の手伝いを夏休みの数日していて、ものを組み立てる事や仕事として完成していく事に興味を持っていたので専門学校を選択した時から家業を継ぐことは決めていたので4年間設備工事店で修業という形で働かせてもらった後自然に会社にもどってきた感じです。

落ち込んだこと

メンテナンス業から工事店へ変革するにあたり、修業時代につながった職人さんたちと仕事をすることとして、改めてお金のやり取りに苦労をしたことが自分自身の思惑と相手の思惑が違って一時落ち込みました。

その結果、ストレスからくる腸捻転となり体もしんどかったです。

どう乗り越えたか

全てが自分自身の責任ととらえることで、経営すら自らがやることにして代表も変更しましたし、内心で人のせいにすることをやめていきました。

今後のビジョン

下請け業が8割を占める会社ですので、自ら提案して事業を拡大させることを基に確実に事業承継をすることで100年企業にします。

そのために、新しい取り組みとして地方自治体向けに避難所指定の体育館へ床輻射の冷暖房システムを提案実施し、公益性高く、自社の強み発揮できる事業をを確立させる。

様々な可能性にチャレンジする企業として経営していきます。


会員:引田 和幸

『ボンボンと言われることが嫌だった』2代目社長

どんな学生だったか?

高校生まではごく平凡な目立たない学生生活だったと思います。

中学までは転校ばかりで幼稚園2か所、小学校2か所、中学校も本来行来たかった場所には学区の問題で行けず転校という形になりましたので合計3回の転校をしました。そういうことではある意味目立っていたかもしれませんね(笑)

その後やっと親も落ち着いて腰を落ち着けたからなのか、高校生になってから始めたサッカー部の部活に専念し、ゴールキーパーとして埼玉県東部選抜に選ばれることができました。同時にバンドも始め、『BOΦWY』に憧れベースギターを弾き始めました。彼女が初めてできたのもこの頃で、戻れるなら僕が一番戻りたい時代ですね(笑)

また、父親が運送会社を設立し、僕に『将来どうするんだ?』との問いに、『どうせ作るなら継ぐよ』と軽く言ったら、『和幸流通サービス』という僕の名前が入った会社が誕生致しました。この時点で僕の人生のレールが引かれた訳ですが、この時はまだ使命に思い素直に父の会社に入社するのだと思っていました。大学には行かずに専門学校に入ってSE系の勉強をしたのも、運送会社で活用できればという思いからでした。

サラリーマン時代

某上場運送会社の本社電算部という部署に配属され、僕のサラリーマン時代はスタート致しました。

しかし入社5か月後、当時バンドを組んでいた仲間が某大手生命保険に勤務していて、同じ場所で働いた方がバンドの練習がしやすいという安易な理由で転職致しました。

その後2年間生命保険会社で営業を経験致しました。

入社のきっかけ

父親からの『そろそろ運送会社で働け』の言葉により数社の運送会社を面接致しました。そして、明日から入社が決まった運送会社に出勤という時、父親から『ドライバーが辞めたから明日からうちには入れ』の鶴の一声で急変し、『和幸流通サービス』という自分の名前の入った会社に勤めることになりました。

落ち込んだこと

  1. 人に裏切られたこと。
  2. 社員の為に喜ばれると思って行動していたことが全く喜ばれていなかったこと。
  3. 親と比べられること。
  4. ボンボンと言われたこと。父親が凄くてお金持ちだっただけで、僕は何もないと思っていたので、反骨心からそう呼ばれることに嫌気がさしていた。

どう乗り越えたか

  1. お互い違う世界で頑張ろうと気持ちを置き換えた。
  2. 自分がいいと思えば他人もいいと思うはずという考えを変えた。
  3. 比べるのではなく、意思を引き継ぎ、新しく変える考えを持った。
  4. ボンボンで何が悪いと思うようにした。逆にラッキーだと思うように気持ちを切り替えた。

今後のビジョン

経営方針の『5方よし』を基に、会社、得意先、社員、協力会社、地域社会がともに発展していける会社を目指すこと。

 本社の前の通りを通称『和幸通り』と呼ばれるようになりたい。その為に通り沿いに弊社拠点を多数持つこと。そして地域貢献をすることにより、『草加市柿木町に和幸あり』と言われる会社になること。

 運送会社社長にとらわれず、起業家、投資家という立場も切り開き、『忘己利他』の精神を忘れずに発展させること。

 座右の銘である『人を怒らず 人を憎まず 人を受け入れ 人を愛し 人に尽くせば 人は報われる』を胸に刻み、貫き通すこと。


会員:本多裕樹

なんちゃって帰国子女な2代目

どんな学生だったか?

 中高一貫・全寮制の学校で、6年間寮生活をしていました。

親の熱のこもった教育が嫌で、全寮制の学校に行きました。

帰国子女ではありますが、苦手科目は英語です。

規律の厳しい寮生活を選んだことは、最初こそ後悔はしましたが、住めば都でした。

(テレビ・マンガ禁止の環境ではありましたが、こっそりマンガを持ち込んでは没収されていたのも良い思い出です)

中学3年生から始めた硬式テニスにハマり、休みの日は寮内のテニスコートの取り合いに参加するほど熱中し、高校ではテニス部副部長を担わせて頂きました。

サラリーマン時代

大学生の頃、歯科材料を扱っている会社でアルバイトをし、卒業後そのまま就職しました。

こちらの会社では歯科業界と技工サイド、大人の遊びを学ぶことができました。

東京での勤務でしたが、2年目を過ぎたころ当時の社長から福岡の状況改善の命を受け、転勤も経験もしました。

入社のきっかけ

2004年に母親が離婚を期に歯科業界向けの起業をしていたので、研鑽を積む為に歯科業界の企業へ就職するという背景がありました。

 2008年にはメディカルアドバンスは内覧会事業を確立させて順調に業績を伸ばしていったのですが、2014年に当時の専務兼管理部長が会社を辞めた事で社内統制がとれなくなりつつあった状況だったようです。

 そこで、代表である母親と会社の顧問を務めるコンサルタントから「すぐに会社に来て手伝ってほしい」と私に相談があり、急遽メディカルアドバンスへ入社しました。

落ち込んだこと

私と代表とのやり取りにおいて、口論になりやすく、それを聞いている社員のフラストレーションになっているという話を聞いたときです。

どう乗り越えたか

身内だからこそ、つい言い返したくなるところをぐっと堪えるしか今のところ見いだせていません。

今後のビジョン

当社はお取引先様から「内覧会事業の会社」という事でご認識なので、今後は「医院の経営サポート事業の会社」という認識に変えていけるようにしていきます。

 具体的には内覧会で「開業のサポート」をするだけではなく、事務長業務の代行・院内ミーティングのファシリテート・歯科衛生士の副業と転職サービス・マウスピース矯正装置の企画販売など「開業後の経営についてのサポート」にも現在取り組んでいます。


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